■近代文藝之研究|時評|個人の寂寞、……(6)
- カテゴリ: その他
- 2012/06/17 03:03:00
■近代文藝之研究|時評|個人の寂寞、勝利の悲哀 (6)
併しながら吾人は寧ろ根本に於いて異なる意見を持してゐる。日露戰後、戰勝の歡喜に幻惑して宗教的理想の境と益々相遠ざからんとするが如き人々は初めから戰勝の悲哀といふが如き精神的福音に耳を傾け得るものとも覺えぬ。また國家といふ傳來の生存形式を保持する...
島村抱月・著『近代文藝之研究』のテキスト・データ化ブログ。2014年02月に全文のデータ化終了。只今入力ミス等の校正進行中。
■近代文藝之研究|時評|個人の寂寞、勝利の悲哀 (6)
併しながら吾人は寧ろ根本に於いて異なる意見を持してゐる。日露戰後、戰勝の歡喜に幻惑して宗教的理想の境と益々相遠ざからんとするが如き人々は初めから戰勝の悲哀といふが如き精神的福音に耳を傾け得るものとも覺えぬ。また國家といふ傳來の生存形式を保持する...
■近代文藝之研究|時評|個人の寂寞、勝利の悲哀 (5)
之れを要するに、今は既に個人主義、本能主義の歡喜を説くべき時でないと共に、之れが解脱を説くのも容易の業ではあるまい。今はむしろ之が悲哀、寂寞を説くべき時ではないか。而して是れ正に一代の思想が最も文藝に利するの秋ではないか。先頃徳冨蘆花氏の『黒潮...
■近代文藝之研究|時評|個人の寂寞、勝利の悲哀 (4)
吾人が文藝の不盡の源といつたのは、此の悲哀の泉に汲むの意である。此の點から言へば、個人主義、本能主義の如きは、人世ある限り窮極のものに非ずして發足のものである。結果成就の眼を以て見るべきものではない。之れを現當至極の主義の如く唱説するの徒は、事...
■近代文藝之研究|時評|個人の寂寞、勝利の悲哀 (3)
斯くの如くして個人的傾向と宗教的傾向との中間には尚ほ複雜なる過程を要する。此の過程を眞に踏み了へた後でなければ、前者の傾向と、後者の傾向とは確乎として相接し相移るものではあるまい。而して吾人は實に此の中間の過程に盡きざる文藝の源を見出だすと考へ...
■近代文藝之研究|時評|個人の寂寞、勝利の悲哀 (2)
個人主義、本能主義の要求が、道徳といふものゝ存立してゐる限り現在の社會に〓[#「厭」+「食」]飽せらるべきものでないとすれば、そこに煩悶が起こる。此の如き煩悶の内容は不平、怨嗟、破壞である。また或る程度に於いては、一時的、一局部的に個人本位、本...