母は、二つの泥棒に追われていた。
一つは、母の記憶を少しずつ剥ぎ取っていく、あの静かな忘却の精。
もう一つは、母の体を内側から蝕む、癌という名の不機嫌な獣。「あら、今日はどちらの御方?」
癌の痛みで顔を歪ませながら、母は淑女のように問いかける。
自分の細胞が悲鳴を上げているというのに、
頭の中の帳面...
母は、二つの泥棒に追われていた。
一つは、母の記憶を少しずつ剥ぎ取っていく、あの静かな忘却の精。
もう一つは、母の体を内側から蝕む、癌という名の不機嫌な獣。「あら、今日はどちらの御方?」
癌の痛みで顔を歪ませながら、母は淑女のように問いかける。
自分の細胞が悲鳴を上げているというのに、
頭の中の帳面...
母は、一輪の向日葵のように笑って、
私の名を忘れてしまった。
それは、夏の夕暮れにふっと灯が消えるような、
あまりにあっけない、手品のような出来事であった。「どなたでしたかしら」
その丁寧な言葉の礫(つぶて)が、
私の胸の、いちばん柔らかな場所を正確に射抜く。
ああ、神様。
これは罰でしょうか。それ...
あさましい、とはこのことか。
かつては、私の背をあたたかく包んでくれたその手で、
母は、自分の便(べん)を弄(まさぐ)り、
お気に入りの牡丹(ぼたん)の茶碗を、
庭の石へ投げつけて割った。
ああ、なんと、滑稽で、悲しい、絵画のような光景。「あなた、だれ?」
一日三度、私は、知らない男に生まれ変わる。...
── 獣、森、そして星のしじまへ ──Ⅰ. 獣たちの落日
風は いちどきに ひるがえり
あかるい雲の あわいに 消えた
遠い けものたちの 足おとは
いまは ひそやかな 祈りのようだ金のたてがみは 夕陽に とけて
草のなかに しずかに 横たわる
きらめく瞳も やがて とざされ
深い 眠りの 淡彩(パ...
金色の ひかりのなかを
けものらは しずかに あゆんでいた
さよならの ひびきを まといながら
風のなかに その影を ほどいてゆくかつて あんなに あかるく
野をかけ 星を みあげていたのに
いまは ただ うす紅の 雲のした
やさしい ねむりを さがしているもう 吠えることも わすれて
かれらは た...