待ち合わせたわけじゃないのに、
その人は、記憶のほうから歩いてきた。 駅の光は、まるで封印を解くようで、
十年前の僕が足元に立っていた。 声はかけられなかった。
まなざしは、今と昔のあいだをすり抜けて、
何も交わらないまま、風だけがふたつの時間を結んでいった。 ポケットのスマホは冷たく、
...
待ち合わせたわけじゃないのに、
その人は、記憶のほうから歩いてきた。 駅の光は、まるで封印を解くようで、
十年前の僕が足元に立っていた。 声はかけられなかった。
まなざしは、今と昔のあいだをすり抜けて、
何も交わらないまま、風だけがふたつの時間を結んでいった。 ポケットのスマホは冷たく、
...
夜空は緞帳、星々は神経に触れる銀の破片。 天の川は、意志を失った血管のように
ただ冷たく、ただ無意味に、空を裂いている。 織姫は祈りではなく、命の反復を織り、
彦星は欲望ではなく、記憶の残骸を曳く。
ふたりは会わないために存在しており、
その距離こそが唯一の美しさとして固定されている。 我々...
僕は、石につまずいた。
ほんの少し前まで、彼女のことを考えていた。 いや、正確には、思い出していたというより、
彼女の不在をなぞっていたのだ。
指先でなぞる空白の輪郭のように、
そこにあったはずの声、仕草、まなざし――
それらの“痕”だけが僕の中に残っていた。 倒れ...
夕暮れは、紫の血のように空を染めていた。
崩れかけた光が風に震え、胸の奥に音を残す。 幼い頃に見た水死体。
冷たく、美しく、沈んだまま忘れられない。 記憶は使われない香水の瓶。
香りだけが、ふいに胸を刺す。 誰かの笑顔も、今はただの残響だ。 足元で砕けるのは、自分の中の硝子。
夜空へ舞い、星...
泣きはじめたのは、たしか冷蔵庫を開けた瞬間だったと思う。
ドアを開けたら、レタスがしおれていて、なぜか、それがどうしようもなく哀しかった。 涙がポトポトと落ちて、キッチンマットに小さな斑点ができた。
自分が何に対して泣いているのか、よくわからなかった。
たぶんレタスじゃない。たぶん僕でもない。...