The Lady of Shalott
- カテゴリ:アート/デザイン
- 2010/01/16 23:32:21
ご存じの通り「なんぞ面白い作品は~」とわたしは日々うめいていたりする。
交流先の方のお答えに、
「ここしばらくで一番面白かったのは漱石の『夢十夜』ですけど、」(大意)
というのがあって、おぉ、とちょっと驚いた。
面白いっていうか、好きです『夢十夜』。
なんだけど、実家にあった文学全集で隣り合って載っていた『薤露行』も好きで、思い出すと、思考がそちらに向けて走り出してしまった。
『薤露行』は漱石がアーサー王伝説の一挿話アストラッドのエレインの話を自分流に再話したもの。
序文でもって『マロリーのアーサー王ではランスロットが車夫のようで、ギネヴィアがその情婦のよう』(大意ね)とぼやいてるのがおかしい。
いや、確かにマロリーの『アーサー王の死』(抄訳しか読んだことないけど)のランスロットはガラッパチというか、もすこし後先考えろよ~と突っ込みのひとつも入れたくなる直情っぷりで、良くも悪しくも、粋でも勢い任せな車引きの兄ィじゃないんだから、と言いたくなるのも分からなくない。
脱線になるけど、鴎外がロード・ダンセイニの戯曲を訳しているらしい、というので、学生時代、図書館で鴎外全集で探し回ったことがあった。
「忘れてきたシルクハット」がそれだが、登場する詩人が俗っぽく、一般人の男のほうが余程恋や心に忠実で皮肉だった。
さすが男爵さま、とニヤニヤした反面、そんな作品を鴎外が訳しているのが意外だった。
漱石といい、鴎外といい、文豪は生真面目なだけでなく、洒落も分かる粋な「大人」だとうれしくなる。
テニスンの詩‘The Lady of Shalott’『シャロットの女』が『薤露行』の元ネタのひとつだろう。
赤毛のアンが真似て川流れしたアレ、というと思い出してもらえるかも。
色々な画家が絵にしているが、なかでもジョン・ウイリアム・ウォーターハウスはこの題材で何枚も描いている。
そのうち、テイト・ギャラリー所蔵の一枚が大好きだ。
この絵をカラー印刷したのを、新聞社が希望する購読者に配布していた。
正確には同時代の画家の絵を一年にわたって配布していたなかにこの絵が入っていたのだが(ってかこれが欲しくて新聞契約しました)。
載ってる画集も持ってるけど、絵があまり大きくないもんで。
が、書いてあった題名に驚いた。
「シャーロット姫」
おいおい。
Shalott は地名だろ。
お姫様の名前と違うから。
ってか、みずから解説文に「シャーロットの塔」って書いてるぞ。
実際美術書で「シャーロット姫」になってて、バイトの学生さんの下訳そのままかと思ったことがあるし、TVドラマでその名が使われていて、友人と笑いのネタにしたこともある。
元ネタのテニスンの詩を考えればいい、定番の坪内逍遙訳(これの題名は『シャロットの妖姫』)もあるのだし、ってか十代のお子さまに笑い話にされるような間違いだよ?
新聞社がね~、とちょっとションボリ。
あれから随分時間が経って、検索ひとつでメジャーな訳が出てくる時代。
つまり、この題名書いた人にはわずかの疑問もなかったわけで。
アーサー王伝説って、そんなにマイナーなんですか?
面白いもの、興味あるもの、好きなもの……へ走りました。
なんだか脈絡ない連想ゲームになってしまって、申し訳なし。
体調のせいで間があいてしまいました、ごめんなさい。ご覧になるかな?
やっぱりというか、誤解されたなぁ、と苦笑してみたり。
あー、えと「了承する」というのは「表記法が変わっていることを承知している」意味です。
元のままじゃないことを覚悟してますよ、と。
おっしゃるとおり、わたしは歴史的仮名遣いを読むのが苦になる人間ではありません。
問題はわたしではないんです。大勢の人、普段から本に触れているわけではない人、これから読者になる人です。
(そういう意味で、ぢょほほんさんが正字旧かなを選んでいらっしゃるのとも別のレベルの話です)
ひろく出版される本が、現代かなづかいであることを認めざるを得ない、という話です。
(とりあえず「ブゥたれずに我慢しろ、わたし」っていう、自分のスタンスの線というか……)
読まれなくなることはテキストの死です。
表記法の違いで読まれなくなり、出版されなくなり、そのテキスト自体が人の手に渡らなくなることは、やはり避けるべきことだ、と思います。
表記法の変わった形ででも人の目に触れていれば(こと表記法の差でしかないのであれば)もとの音、言葉は残っています。
そこから正字旧かなの元テキストに手を伸ばす人は必ず出てくると思うのです。
機会を、可能性を残すために、そこに至るルートとしても現代かなづかいにしたテキストの存在を認めるしかない、というのがわたしの立場です。
個人的には手に入るものなら、元テキストに近いものを選びますけど、ね。
えーと、あと国語学は苦手なので確かなことは言えませんが、
「おーさま」と「おうさま」の音韻は異なるような?
そこは校訂者の守らねばならぬ一線かと。
究極的には「翻訳は許容できるか」ということになるのだと思います。
そのあたり、特に訳者にあるべきスタンスについては言いたいことが結構あります、横ですが。
やむを得ぬものとして、現代かなづかいによるテキストは必要である、それなしには元テキスト自体も、元テキストにふれる人もなくなってしまうから(でもなぁ、本音言うとちと違うよなぁブツブツ)というスタンスです。
自分を納得させるために色々言ってる部分もあったりするんですよね〜
まず、私が明治の文学は歴史的仮名遣いのものを好んで読むのは、
偏屈な私のこだわりなので、他人にお薦めするものではありませんww
新かなで読んでも旧かなでよんでも、夢十夜は素敵です。
素敵なことには変わりないですよ。
なので、歴史的仮名遣いでしか読まないという私のことは、そういう変な人もいるんだねー、って面白がってもらえればそれでも十分でして。
ただ。
私は煩雑だから仕切りなおしたのが必ずしもよいとは思えず、
別段歴史的仮名遣いが新仮名遣いよりも読みにくいとは全く思わないです。
(むしろ読書家のすかさはさんが歴史的仮名遣いが読みにくいと本当にお考えでしょうか?と、不思議に思うのですが)
また、歴史的仮名遣いは表記と読みが一致しないが、新仮名遣いは一致するからわかりやすくてよい、というなら
絵本の表記は
「おうさまのみみはロバのみみ」
ではなく、
「おーさまのみみはロバのみみ」
と表記するのがよい、ということになります。
「おーさま」でもいいじゃん。
リズム、響き、音の素晴らしさはおなじなんだから読みやすいほうがいいじゃん。
と考える人がいても別段不思議ではないんですが、私はやっぱりそうは思えません。
また、読む側は了承してるでしょう、とのことですが、私は了承できないから古本屋に足を運ぶわけでww
それに・・・書く側は了承していないと思いますよ!
そうだ一杯賭けませんか?
寿命尽きてあの世で漱石先生にお会いできたら、昭和生まれが新かなで先生の本読むのって許せないっすよね!?
って聞きに行きましょうよ。
これはね、自信ありますよ私ww
どうですか?
なーんて。
えーとですね、微妙に雰囲気変わるかな、と思いながらも、正字旧かなで読んだものの現代かなづかい版が許容範囲だったのは、音が変わらない、って部分のせいだったかと。
「書き手がその表記を選んでない」っていうこだわりは、書き言葉が重要視されるのが伝統の国ですし、理解出来ます。
ただ、仮名遣いって呼ばれている時点でその表記法は、表音文字である仮名が、音とズレた故にルールを適応している、ってことなんですよね。
(過去この表記法ができたときは、文字通りに音にしていました)
で、それは読み書きを覚えるのが煩雑なので、仕切り直そうとしたのが現行の表記法なわけです。
現行の表記で学んだ人(特に文学に強い興味を持っているわけではない層)にはこの表記法違いは壁です。
なので「表記法だけ」を変える(漢字を勝手に開くなどはするべきでない、と思います)。
それでフと気が向いただけの一見の読者にも容易に読むことが可能になる。
表記は損なわれます。でも「言葉」は残る。
時代を超えても残る作品の言葉は強いですよ。
唇に、舌の上に乗せてみれば、そのリズム、響き、音の素晴らしさは明確です。
これを、表記の違いの壁で大部分の人が回避し、結果忘れ去られるのは是とすべきことでしょうか?
表記の問題を言うなら、古典(近世までの)は活字落としされただけでも校訂者の手(そこにはその人物の考えや判断が含まれます)が入ります。
多くは変体仮名を普通の仮名に移しますし、まず文学表記のルールが違う。
オリジナルテキストは尊重されるべきです。でも、原型と違っていても、わたしは「源氏」が伝えられたこと、読めたことが嬉しい。
表記法が変わったことは周知の事実です。(自分が読んでいるものは表記法が変えられていると)読む側も了承しているはずです。
そこを前提に、近代文学のシステマチックに移し替え可能な部分については、許容するしかない、というのがわたしの立ち位置です。
著作権期間の問題なんかも含め、オリジナル(というか著作権者の意図)の保護と、作品自体が存在し続けることのために手綱を離すこと、難しいな、と感じています。
私が歴史的仮名遣ひじゃないと読まないというのは、
まあ私が偏屈だからなのが一番の理由ですがww、
それ以上に、たとえば漱石は「「坊つちやん」と書いたのであって、
「坊ちゃん」などとは『書いていない』からです。
私は創作者の端くれの隅っこの方の落ちこぼれですがww
まかりまちがってww、私の文書が後世に残ったとしますね、で、その際私の文書を収録する際にですね、
「わたしゎ」
などと改ざんされて収録されたら、あの世でぶち切れ確定ですよwww
それは、言葉に魂込めて創作したに違いない者から見れば、雰囲気の違い、ということではないと私は考えます。
私だったら許せないので、漱石だって鷗外だって中島敦だって柳田國男だって怒ったりあきれたりがっかりしたりするに違いないと私は勝手に思っているわけです。
まあその、私の偏屈(と書いて“こだわり”と読む)は過去の日記に書いてあるので、よかったらご覧下さい♪
http://www.nicotto.jp/blog/detail?user_id=30680&aid=6330992
明治の文豪の作品は、歴史的かなづかいで……気合い入ってますね〜
小学校入ったあたりで文学全集あさったせいで、近代文学の現代かなづかいは平気……というか慣れてしまったのですが、その心持ちはわかります。
大正時代に翻訳された本の、正字旧かなでの再刊版を持っていて、それが現代かなづかいでさらに再刊されたのですが(収録作に異同があったので購入しましたが)、やはり少しですが雰囲気が違うので。
やっぱり腰据えて、書かれたのになるたけ近い形で読む方がなんというか「寄り添える」かもしれませんね。
私は若い頃不勉強だったので、文豪の定番とか名作とかあんまり読んでいないのです。
なのでたまには読もうかなと。
「夢十夜」を読もうと思ったのはファミ通文庫の「文学少女」シリーズの天野遠子先輩が
『耽美で幻想的な物語は、熟成したワインの味よ。熱と香りを伴って喉を滑り落ちてゆく詩的な文章に心ゆくまで酔いしれて! 日本人に生まれてよかったと思うはずよ。(後略)』
と、強烈なことを言っていたので、遠子先輩のお薦めなら、読もうかなと。
ははは、お恥ずかしい限りで。
『薤露行』、面白そうですね、読みたいな・・・
でもでも、私の手元の「現代日本文学大系」には収録されていませんでしたので、当面読めないです・・・残念。
え? いや、明治の文豪は絶対ど・う・し・て・も、
歴史的仮名遣ひでないと読む気がしないので、読める作品が限られてしまふのです。
たまに古本屋に行かないといけないのですよ。
ま、読む暇もないからちょうどいいんですけどね。
ロクデモナイ物だと思われていた文学を、信じ、選び取り、作り上げるには、それを愉しむ心の余裕と知性、強い意志が必要だったと思います。
そんな人たちが、まだ出来上がっていなった「小説」のフォーマットを作り上げたんだなぁ、とシミジミします。
nagataさん
じつは近代文学、あまり数多く読んではいません。
時間の開きのせいですこ〜しだけ馴染みにくい部分もありますが、時間に押し流されぬものが生き残っているのですよね。
また 読みたくなってきた。
まったくですよねっっ!!
重厚な教養、漢語と外国語、言葉のセンス、小説の技法、それにくわえて、
そういう粋だったり洒脱なところ。
『夢十夜』も『猫』も『舞姫』もふたりのそんなところがよく出て大好きですし、
なにかかんちがいされすぎてると思います。