Nicotto Town



波乱万丈・・・その③


奇しくも太鼓判をのあった新設科をものの見事に落選(ト~ゼンっすけどネッ)した俺ッチは

心機一転?と言うか心置きなく??志望校目指して本腰を入れ始めました。

推薦の合否連絡があったのが確か2月に入ってスグで、志望校入試が3中でしたので、

ほぼ1ヶ月間、睡眠時間2時間で猛勉強のフリをしました(((笑)))

その結果…見事合格を果たしました。

合格はしたのですが。。。。なにせラベルが高過ぎて(ーー)”””

中間・期末の定期テストは年4回しかなく、必然的にテスト範囲が広範囲になります。

しかもテスト内容はと言いますと・・・%&@?#!「」<>=(~|的に意味不明。

更に教科書は電話帳並みに分厚く、赤点が60点以下・欠点40点以下と設定され、

赤点が全体の60%、欠点は同30%、更に全体の平均が59点以下でめでたく?

落第決定!となっておりました。

1年2年時は成績も中の中辺りでウロウロしてたのですが、、、、

元来、遊び好きな俺ッチです o(^0^)o  3年時には一気に下の下の仲間入り♪

進級条件の平均点数59以下を59.7点でツメの先が引っ掛かってのクリアでした。

続く4年時も楽ではなく、3年時程では無かったですが、ギリでの進級でなんとか

無事5年まで辿り着き、卒研を終え卒業致しました。

3年時に面倒を掛けた担任が今や衆議院議員をしてるのにはオロロキますが。。。。

俺ッチ卒業の頃は、丁度バブル経済の始まりで、卒業生も引く手数多でした。

長男として色々考慮し、大阪(ミナミ辺り)での就職を親に相談したのですが、

「こんな時代やさけ、もっと大きな企業へ行っときなぁ~。
 
 まだまだおまんの世話なんかになれへんさかい。」とかなんとか言われてしまい、

先輩達も多くお世話になってる愛知の大手企業に就職しました。

戦前からの企業で、社員教育も熱心に行っており(夜勤明けの社員まで集合させてまで)

人権問題や、部落問題の教育を月2で実施していました。

当初はその教育熱心な会社の心構えに感心してはいましたが、ある日の事でした。

残業(勿論サービスですよ)で、一人倉庫内で作業をしていると。。。。。

部長と課長のヒソヒソ話が聞こえてきました。

「障害者なんかに、昇格試験うけさせてもなぁ~~~」


プチン・・・・・・・


何かが切れました。

月2で、しかも夜勤明けの社員まで招集して教育してる会社の幹部連の口から、

差別的発言が?しかもその幹部が自分の直属の上司???

『やっとれんわぁ~!』

翌日から登校拒否ならぬ、出勤拒否デス。

当時の工場長は、副工場長時代銭湯の帰りに(独身寮内に会社の集団浴場があったので)

よく一緒になり、浴場前の居酒屋でゴチになりました(浴場前に居酒屋もありました)

そんなよしみで(どんなや!)、ソッコー電話が鳴り、「出てきてくれんか?」とのラブコール。

「アカン、あんな信用ならんやつ等が上司の職場、もう辞めるねん!ゴメンなぁ。」

と答えましたら、翌々日。。。。

ブ~~♪ 魚晋くんいる~?。の声。

中部のみならず、関東・東北の至る支店の工場長連中が、俺ッチの独身寮へ大集合!

総勢9名の大幹部連が平謝りで、頭を垂れ今回の件は口外しないで欲しい旨と、

考え直し、会社へ戻って欲しいと頼まれましたが・・・・。

男が一度決心した事や、一旦切れた糸ってのはねぇ~。

ってのと、折りしも当時健康の為、近所のスイミング施設にマスターズの選手として

週2で泳いでました。其処の社長が

「人当たりもイイし、股関節に障害があるんだったら水のなかは一石二鳥やろ!?

 定年まで雇ってやるから、ウチへ来てくれんか??」と

保険??とも言える、隣の芝は青い的、甘い誘惑もあったのです。

ですが、これがまたおおきな山となり、谷となるのでした。


----------------その④へつづく---------------






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