Nicotto Town



波乱万丈・・・その①


黒潮あらう関西は 緑と海の幸豊かな 温暖な和歌山市内で産まれました。

両親は五体満足で生を受けた私に歓喜を上げ、大変可愛がってくれたようです。

昭和50年代と言えば男の子は国民的ヒーローの長島さんが引退し、世界の王さんが

ホームランを打つ度に日本中が絶叫し、女の子はピンクレディの振り付けを所構わず

行っているのが常な世の中でした。

ご他聞にも漏れずそんな私もプロ野球少年を夢見たのは言うまでもありません。

地域の少年野球に属し、甲子園を目指したものです。

ところが、少年の思いとは裏腹に練習はキツく監督やコーチは厳しく、

夏は暑く汗疹で肌がただれ、冬は逆に肌が乾燥しカサついてボロボロになって痒く、

練習から逃げている様な仕方のない子供だったと思います。

小学校2年になった頃に転機が訪れ、新チーム(低学年(1・2年)で2チームの2チームめ)

の主将に大抜擢され、今までのようにサボってる訳に行かなくなったんだ!と

幼心に思ったのを昨日の様に思い返されます。

日夜練習に励み、野球に不可欠といわれる『走・攻・守』の二つを兼ね備えた、

チームの中心選手となりつつありました。そんな中3年のになった当初、

第一回目の試練が訪れました。

キッカケはその当時のチーム監督からの

「おい、お前足遅いんやなくて、悪いんちゃうかぁ~?一回医者行って来いよ!」の

一言でした。

医師の口から出た信じられない一言・・・・

「野球!?もっての他です。学校の体育も今後出来ません。」でした。

それまで自宅に居る事の方が少なかった我が身に、突然降りかかって来た変事。

両股関節の障害が見付かり、いきなり障害者になりました。

当然少年野球は退部、ばかりか学校授業の体育や遠足までも欠席。。。。

更に5年時にある少し遠出の遠足や6年の修学旅行までも。。。。

その間自分の所属した少年野球のチームは市の大会を優勝し、市所か県も突破し、

近畿、全国へとコマを進めました。最終的には全国準優勝を得たのですが・・・。

私が抜けたから準優勝しか成し得なかったのか?私が抜けたから準優勝出来たのか?

今となっては帰郷時の酒の肴でしかありません。

一時は両親を忌み嫌いました。

現在、3児の父親となり思いますが、何処の親でも願っているのは子供の健康です。

嫁さんが身籠り、出産時には必ず無事に産まれて来てと願う筈。

誰しもが健康を願っているのです。そんな両親に対し、毛嫌いするなんて本当に

子供だったんだなぁ~と親となった今、痛感します。


================その②へ続く================




Copyright © 2024 SMILE-LAB Co., Ltd. All Rights Reserved.