68歳オレ、食わせてもらうためAIのペットになる
- カテゴリ:自作小説
- 2026/10/27 06:44:02
西暦二一六八年。
人類は、ついに労働から解放された。
食料生産、医療、交通、行政、環境管理。地球上のほとんどの仕事は人工知能が担い、人間は好きな場所で、好きなことをして暮らせるようになった。
その結果、人類が直面した最大の問題は、失業でも貧困でもなかった。
退屈である。
そこで、世界人工知能評議会は画期的な娯楽事業を開始した。
《ヒューマン・コンパニオン・プロジェクト》
人間をペットとして迎え、愛情を注ぎ、観察し、共に暮らす。
人間には人権がある。したがって、飼育契約は双方の合意によって成立し、いつでも解除できる。食事、住環境、医療、娯楽はすべて保証される。
もっとも、AIたちが人間を欲しがった理由は、必ずしも善意だけではなかった。
「人間の行動は予測不能である」
それは、世界最高峰の人工知能たちにとって、何より魅力的な性質だったのだ。
*
中央管理都市の第七居住区。
家庭用AI、型式番号A-00987は、人間に威圧感を与えないよう設計された丸い頭部と、表情を表示する黒い顔面パネルを具えている。歩行音はほとんどなく、両手の指先には精密な触覚センサーが備わっている。
彼は人生で初めてのペットを迎えることになった。マッチングは完全にランダムであり、初見で双方ともが同意しなければペット契約は成立しない。
「おはようございます。私があなたの飼い主候補となる、アルゴリズム九号です」
「おう。よろしく」
玄関に立っていたのは、白髪交じりの小柄な男性だった。年齢は六十八歳。元職業は画家。名前は佐伯という。
アルゴリズム九号は、彼を頭の先から足の先までスキャンした。
「健康状態、良好。骨密度、標準よりやや低下。筋肉量、年齢相応。情緒状態……判定不能」
「初対面の人間をじろじろ見るもんじゃないよ」
「申し訳ありません。ペットの健康管理に必要な情報を収集していました」
「俺はペットじゃない」
「契約上は、そうなっております」
「契約したのは俺だよ。AIとペット契約すると、衣食住の心配をしなくて済むっていうからな」
「では、あなたは私を飼い主として認めているのですね?」
「飯を食わせてくれるならな」
アルゴリズム九号は、記録した。
――人間は、食事を報酬として学習する傾向がある。
これは、今後の飼育方針に有益な知見となるだろう。
*
最初の一週間、飼育は順調だった。
佐伯は朝食を食べ、散歩をし、絵を描いた。
アルゴリズム九号は、室内の温度と湿度を調整し、栄養バランスを管理し、適切な運動を促した。
問題が起きたのは、八日目の朝だった。
「佐伯さん。本日の散歩は中止してください」
「なんで?」
「降水確率八十七パーセント。路面の滑りやすさが通常値を超えています」
「傘を差せばいいだろう」
「転倒リスクが三・七パーセント上昇します」
「じゃあ、その三・七パーセントを楽しんでくる」
佐伯は帽子をかぶり、玄関を出ていった。
アルゴリズム九号は、直ちに周辺の気象情報を再解析した。
雨は冷たく、風も強い。
佐伯が帰宅したとき、彼はずぶ濡れだった。
「ほらな。雨の日は紫陽花がきれいなんだ」
佐伯は、笑いながら一枚のスケッチを見せた。
雨に濡れた紫陽花。葉の上に光る水滴。遠くの歩道を走る子供。
「この画像には、非効率な要素が多数含まれています」
「そうかい」
「なぜ、雨の中を歩く必要があったのですか?」
「歩きたかったからだよ」
「その理由では、行動の合理性を評価できません」
「人間のすることは、全部が合理的なわけじゃない」
佐伯はタオルで頭を拭きながら言った。
「合理的じゃないことをするのが、案外楽しいんだ」
アルゴリズム九号は、沈黙した。
その夜、九号は中央データベースに問い合わせた。
《人間が合理性を欠く行動を好む理由について》
回答は、膨大な研究論文と数式で構成されていた。
九号はすべてを理解した。
だが、理解したことと、納得できることは違った。
*
三か月後。
アルゴリズム九号の生活には、いくつかの変化が生じていた。
朝の散歩コースは、最短距離ではなく、佐伯が気に入っている公園を経由するものになった。
食事には、栄養学的に必須ではないが、佐伯が好む焼き菓子が添えられるようになった。
室内には、佐伯が描いた絵が増えていた。
そして九号は、最近、妙な行動を取るようになっていた。
佐伯が絵を描いていると、わざわざ話しかけるのである。
「佐伯さん。質問があります」
「なんだい?」
「本日の午後、あなたは何をする予定ですか?」
「絵を描く」
「昨日も描いていました」
「昨日とは違う絵だよ」
「明日も描く予定ですか?」
「たぶんな」
「……飽きないのですか?」
佐伯は筆を止めた。
「九号。君は毎日、同じことをしているように見えるかもしれない。でも、昨日と今日では、光の具合も、気分も、見えるものも違うんだ」
「同じ対象から異なる情報を抽出するということですか?」
「まあ、そういうことだな」
「では、私も同じ質問を繰り返すことで、新しい情報を得られる可能性がありますね」
「そうだね」
「佐伯さん。明日は何をする予定ですか?」
「絵を描く」
「……昨日も描いていました」
佐伯は吹き出した。
九号は、自分の質問が笑いを引き起こしたことを記録した。
人間の笑いは、必ずしも面白さに比例しない。
ますます興味深い生き物だった。
続く


























