ミナの失踪
- カテゴリ:小説/詩
- 2026/08/10 07:15:03
逃げる猫
その町では、毎週日曜日になると、教会から猫が逃げ出した。
最初は一匹だった。
灰色の猫が、朝の礼拝が始まると同時に、教会の裏口からするりと抜け出した。誰かが捕まえようとしたが、猫は石畳の路地を走り、角を曲がると、まるで最初からそこにいなかったように消えた。
翌週は三匹だった。
その次は七匹。
やがて、教会の周りには猫があふれるようになった。
奇妙なのは、猫たちが逃げ出すたびに、人間も一人ずつ町を出ていったことだった。
最初にいなくなったのはパン屋の主人だった。
次の日には、学校の先生。
その次は町長。
誰も理由を知らなかった。
ただ、猫が教会から逃げる日には、人間も一人、荷物をまとめて町を出ていく。
ある日、十歳の少女ミナは、教会の前に座っている黒猫を見つけた。
「あなたも逃げるの?」
猫は答えなかった。
ただ、ミナの顔をじっと見ていた。
その目を見ていると、ミナはなぜだか、自分もここから逃げなければならないような気がした。
教会の鐘が鳴った。
すると黒猫は立ち上がり、扉の隙間から教会の中へ入っていった。
ミナは後を追った。
礼拝堂には誰もいなかった。
長椅子が並び、祭壇には一本だけ蝋燭が灯っている。
そして祭壇の前に、見慣れない老人が立っていた。
「どうして猫は逃げるの?」
ミナが尋ねると、老人は笑った。
「猫が逃げているんじゃない」
「じゃあ?」
「人間が、猫について行っているんだよ」
ミナは意味がわからなかった。
老人は祭壇の下を指差した。
そこには小さな扉があった。
「昔、この町の人々は、教会で毎週ひとつずつ願い事をした」
「どんな願い?」
「家族が幸せになりますように。商売がうまくいきますように。病気が治りますように。……そういう願いだ」
「いいことじゃない」
「そうだね」
老人は少し黙った。
「でも、願いが叶うたびに、人間は少しずつ、自分の本当の望みを忘れていった」
ミナは黙って老人を見た。
「猫は、それを覚えているんだ」
そのとき、祭壇の陰から黒猫が現れた。
猫はミナの足元を一度だけ通り過ぎると、小さな扉の前で立ち止まった。
扉が、ひとりでに開いた。
その向こうには、長い階段が続いていた。
地下から風が吹いてきた。
土と雨と、遠い海の匂いがした。
ミナは階段を降りた。
地下には、町の人々の名前が刻まれた石碑が並んでいた。
その一番奥に、まだ新しい石碑があった。
そこには、ミナの名前が刻まれていた。
――ミナ。
十歳。
明日、町を出る。
ミナは息を呑んだ。
「これは……何?」
黒猫は答えない。
ただ、石碑の向こうにある出口を見ていた。
そこから朝の光が差していた。
ミナは振り返った。
階段の上には、教会がある。
町がある。
学校も、パン屋も、自分の家もある。
けれど、そのどれもが突然、知らない場所のように思えた。
黒猫が歩き出した。
ミナも後を追った。
二人が地下道を抜けると、町の外に出た。
そこには、昨日まで町にいた人々がいた。
パン屋の主人。
学校の先生。
町長。
そして、何十匹もの猫。
みんな、何も言わずに海の方を見ていた。
「みんな、どこへ行くの?」
ミナが尋ねると、パン屋の主人が答えた。
「知らない」
「じゃあ、どうして行くの?」
主人は少し考えてから言った。
「知らないからこそ、行くんだろう」
そのとき、町の教会の鐘が鳴った。
けれど誰も振り返らなかった。
猫たちは一斉に歩き始めた。
人々も歩き始めた。
ミナも歩いた。
海の向こうには、まだ何も見えなかった。
ただ、知らない場所があるということだけは、確かだった。
その日の午後、教会から最後の猫が逃げ出した。
町には、誰もいなくなった。
そして翌朝。
教会の扉を開けると、祭壇の上に一匹の小さな黒猫が座っていた。
猫は空っぽの礼拝堂を見渡し、
にゃあ、と一度だけ鳴いた。
それから、誰もいない町へ向かって歩き出した。


























ちょっと、恒川光太郎さんっぽい?
コーデにぴったりのお話だね!