左回りのリトル(24)
- カテゴリ:自作小説
- 2026/06/13 01:14:23
夕飯は本当に上寿司になった。僕らが帰ろうとするのを高畠氏は引き留め、出前をとった。寿司をつまむ間も空木秀二の話は続いた。僕と逢坂がそれぞれ初めて彼の絵を見に行った時の事や、山崎の部屋での『水からの飛翔』に対する逢坂の熱弁、空の部屋で『左回りのリトル』見た時の話などを高畠氏はにこにこと聞いていた。
「こうやって、新しい世代が私たちの通った跡をたどって先へ進んでくれるんだね」
逢坂が湯呑みをトン、と置いた。僕も、山崎も、微笑む高畠氏を見つめた。
確信が胸に広がる。少女の駆ける螺旋が僕らの目の前で、ぐんぐんと、ものすごいスピードで鮮やかに回りだしたようだった。
「野宮、今日はおまえに、俺の宝物を見せびらかそうと思って持って来たんだ」
山崎は鞄から少し厚い紙片を取り出して寄越した。僕はそれを見て尋ねた。
「こういうの、何て言うんだっけ」
「球体関節人形」
それはちょうど葉書大のケント紙に、色鉛筆で精緻に描かれた球体関節人形の絵だった。裸で、髪もない。バレエのような危うげなバランスのポーズ。片脚がなくて立てないのだろう。だらりと下げた右腕も肘から先がない。腰を横に曲げ、今にも倒れそうだ。それを支えているのが頭上に挙げた左手を握る、失われていた右手だった。全体にピンクのトーン。背景はグラデーションのみで描かれ、それは暖かな空気が人形を優しく包み込んでいるようだった。
「タイトルは『ECHO』だ」と山崎は言った。
指先が紙の裏側に何かを探り当てた。切手?とひっくり返す。
埼玉県上尾市××
山崎隆之様
ありがとう。
空木梢子
「空ちゃんは俺の名前なんて忘れてたみたいだけどさ。空ちゃんの絵を見て、あの住所と名前を書くノート、あれに書いたんだよ。丸々一ページ、俺」
「ああ、あれもすごかったね」と逢坂も笑った。
「その時の気持ちを書いたんだ。俺、空ちゃんのこの絵に救われた。倒れそうな人形を支えるのは、失くしたと思ってた自分の手、って、空ちゃんも迷いながら描いてるのがわかった。俺と同じだと思った。だから俺も絶対に絵をやるって。そうしたらそれを見た空ちゃんが絵に切手を貼って送ってくれた。俺が持ってていいんだ、って思ったら泣けた。それからずっと、空木梢子は俺の目標だったんだ」
僕の手から絵を受け取ると山崎は目を閉じた。思い出しているのだろう、その頃から今も続く父親との対立や、空の絵に励まされてがむしゃらに駆けてきた日々。
僕は居ても立ってもいられなくなって、「すみません、これで失礼します」とコートを手に立ち上がった。
「空ちゃんの所へ行くんだろう、俺も行く」
「山崎君、君には私の助手としての仕事があるだろう」
「まだ先の事じゃないですか」
「今から仕込んでも遅いくらいだ。いつも言ってるくせに、老い先短いジジイって」
「僕は高畠先生の絵を見せてもらいたいな」
「おまえら、人の恋路を邪魔する奴は馬に引かれて丑の刻参りなんだぞ!」
「違うって」と突っ込んだのは高畠氏だった。
電車を乗り継いで、ホームも道も走って空の部屋を目指した。この前の彼女もこんな感じだったのかな、と思うと笑えてきた。チャイムを鳴らして扉が開くまでの間ももどかしかった。
空は僕を見ると、扉を開きかけのまま困惑した。「ここでいい」と僕は言った。
「『空と歩く』を見て来た。そして空木秀二のメッセージを受け取ってきた。『左回りのリトル』、戻せない時を遡って駆ける可能性、僕らは時を超えられるんだ、あらゆるものの狭間にこだまするものたちと出会って、いつまでも胸の底に漂うものたちと一緒に。過去も未来も自在に飛べる。たとえあの絵が未完成でも」
一気にまくしたてる僕に、空は目を丸くしている。
「思うだけで動き出すタイムマシンだよ、この右回りの世界に隠された」
「……」
僕は考えをまとめようと、言葉を一つ一つ拾うように、ゆっくりと続けた。
「絶望の予感。時は右回りで戻せない。言ったよね、世界に満ちる何者かが苦しみに耐えてこだまを伝えるって。その悲しげな姿の理由もきっとそれだけど、そこから、過去の思いが返すこだまはどっちへ行くだろう?そしてそのこだまはもう、ずっと前からきみの中で響いていたんだ」
「私?」
「山崎め、あんな隠し玉があったなんて」
「山崎君が?」
「こっちの事」くやしいから言わない。けれど笑いがもれてしまう。
山崎もそうだった。空の描いた絵を見ては、何度も何度も、自分の手で自分を立ち上がらせて来たんだ。
「空は、お母さんじゃない誰かを思っているお父さんが嫌いだった?」
「…ううん。そう、やっぱり、好きだった」
空はやわらかく微笑んだ。
「『空と歩く』、彼は記憶の枷も連れて未来へ行くってそう決めていたんだ。きみを『空』と呼んだように悲しみも慈しんで。そして『左回りのリトル』のように」
「うん」と空は僕の言葉を遮った。「わかる。見える。野宮君の周りに」
それは僕には見えないが、空の微笑が嬉しかった。言い尽くせないものがこだまする。
「それもきみはとっくに知ってた筈だ。これが空木秀二だって言った」
「うん。それが空木秀二だって、きっと知ってた…」
「ほら、もう左回りだよ。未来が過去に既にあったのを、今見つけたんだから」
「不思議」
「うん」
顔を見合わせて笑った。それじゃ、と背を向けると空が小声で言った。
「ありがとう」
「…ありがとう」僕はゆっくり振り返った。
「違うよ」
「合ってるよ」
「こだまじゃなくて」
「こだまじゃないよ」僕は両手をポケットに入れて背筋を伸ばした。
「空は時間をくるくる回して、僕に見えない僕を見せてくれたから。今と、過去と、未来と。それがわかったから、もう彼女と重ねたりしないよ」
「うん」
「でも、やっぱりこだまなのかな」
「どっち?」
「こだまだよ。近づきたいもの」
「うん」
「おやすみ」
「おやすみ」
まだ地下鉄は走っていたが、僕は部屋まで歩いて帰った。
僕と、空と。
山崎と。
美久と。
河野と。
逢坂と。
そして、空木秀二と。
ずっと一緒に歩きたかった。『空と歩く』のように。
(続く)




























