左回りのリトル(23)
- カテゴリ:自作小説
- 2026/06/13 01:12:55
高畠氏の家は閑静な住宅街にあった。松の枝が覗く門、手入れの行き届いた庭の奧に優しく古びた日本家屋。玄関で僕らを迎えた高畠氏は、銀縁眼鏡の奧の目を細めたにこやかな男だった。みしみしと鳴る廊下を通って奧の間の障子を開ける。広い和室に大きな座卓。部屋に不似合いな山崎がぐるりと見渡し、壁にかけられた絵に目を留めた。僕と逢坂もつられてそれを見る。僕はその絵を知っていた。
「高畠深介だ」
「そりゃあ、本人の家だから」山崎が答える。「知らなかったの?」と逢坂。
高畠深介といえば日本画にうとい僕でも名前を知っているくらいの大家だ。もっと老齢の、厳しそうな人物だと思っていた。その高畠深介は、盆にお茶を載せて「まあ、座りなさい」とにっこり笑った。
「先生、有名なんだか無名なんだかわかりませんね」
山崎にそう言われても高畠氏は「そんなもんだ」と笑うだけだ。奥さんは足が悪いのだという。挨拶もできず失礼するよ、と言われ恐縮した。
「それで、最近空木に執心だというのはどちらかな」
「こいつです」山崎が僕を示す。野宮です、と頭を下げた。高畠氏は僕を観察するようにまっすぐ見た。画家の目は鋭く、僕は視線を逸らす事もできず見つめ返した。ふいに彼の目はやわらかく細くなり、山崎を振り返った。
「これが空の彼氏かね」
「は?」
「ただの仕事仲間です。それから『彼氏』のアクセントは前です」山崎がニヤリと笑った。
勘のいい逢坂が最初に笑い出した。「野宮君、はめられてる」
山崎はアハハと笑いながら足を崩した。
「先生はおまえに会いたくて、それで呼んだんだよ」
「守屋から『空と歩く』を見たがっている人がいるって聞いて君だと思ってね、山崎君に訊いたんだ。一度君には会ってみたかった」
「なぜですか」
「空から聞いていたからだよ」
高畠氏はお茶を一口啜った。
「あの子は小さい頃からいろいろあって、心を閉ざすような事も多かった。それが双月堂に入ってから、ずいぶん表情も変わるようになって、君たちには感謝してるよ」
「高畠先生も彼女を『空』と呼ぶんですね」逢坂が尋ねた。
「ああ、あの子をそう呼んでいたのは空木だよ」
「不思議ですね。空木さん自身も『空』の字を持つのに」
僕は隣の逢坂を見た。彼は続けた。
「彼もそう呼ばれていたのではありませんか」
「私は彼を『空』と呼んだ事はないよ」
「そうですか」
皆黙り込む。高畠氏の言い回しは、誰かが空木秀二を『空』と呼んでいたという事であり、それは空が感じとっていた『誰か』で、口にする事はできないものだと感じさせた。
「さあ、『空と歩く』を見せてあげよう。空木秀二の原点だ」
高畠氏に促されて僕らは立ち上がった。渡り廊下の向こうの離れは増築したもので、母屋の雰囲気を壊さないよう設計された外観と、仕事場としての機能性を追求した内装のバランスが見事だった。奧には雑然と置かれた物が不思議な調和を生んでいるアトリエが見える。手前は大学教授としての仕事をこなすための書斎だった。
『空と歩く』は書斎にあった。高畠氏に先に入るよう勧められ、僕、山崎、逢坂と順に部屋へ入り、空木秀二の原点と向き合った。
雲が薄くかかる青空を、誰かが歩いている。
丈の長い上着を着た人物は影のようで性別は判らないが、フロックコートなら男性だろう。画面右端寄りに、右方向へと歩いてゆく。
微かな罅のように見える、遠い鳥の群。
彼の足元から画面の左へ伸びる、彼の歩いた跡は水溜まりなのか細波が立っている。
それが『空と歩く』だった。僕は第一印象を口にした。
「『水からの飛翔』に似ていますね」
「空と水を空木は好んで描いていたからね」と高畠氏は答えた。
「いいえ、同じ物を描いたように見えるという意味です」
「同じ物?」
「違うのは、この絵の人物が空木秀二本人だと思える事ですが」
「では、『水からの飛翔』はどう思う?」
「この前逢坂君が言った事ですけど」と前置きして、
「刺のように突き刺した強烈な存在」
「個人の記憶と視線の中を漂うようなものでもありますけど」と逢坂。
「惚れた女」と山崎。本当にわかりやすい。
僕は高畠氏に向き直った。「『空を』かと思ったんですが、『空と』なんですね」
「そう」
「確かに、彼の足元には水がある」逢坂が言う。「水に足を取られながら空に溶け込む心象風景、それならこの空は記憶ですね。彼はもう画面から出ていってしまいそうな風情だ、水の影は彼の歩いてきた時間を示している。これまでも、おそらくこれからも彼は空と歩き続けるんでしょう」
「ふむ」と高畠氏は逢坂の顔をまじまじと見た。
「君はなかなかいい眼をしている。医者より評論家の方が向いてるんじゃないかね」
僕と山崎は笑った。
「気にするな逢坂、ジジイの寝言だ」
師をジジイと呼ぶ山崎に驚いたが、高畠氏は「山崎君の口の悪いのはいつもの事だ。それだけ私を慕ってるんだよ」と笑っている。山崎は「そういう事になってるから」と軽口で返した。僕は話を戻した。
「それならこれは『左回りのリトル』とも同じ物を描いていると言えるんじゃないでしょうか?『空と歩く』では過去から続いて継続する、『左回りのリトル』では遡って、描き出される記憶とそれへの、郷愁、渇望、でも」
「時は戻せない」逢坂が言葉を継いだ。
「だから懐かしむのも、望む気持ちも強くなる」と山崎。「こうして表現されるほどに強く」
誰かが次の言葉を発するのを全員が待った。沈黙を破って高畠氏が「空木は幸せな画家だ」と言った。そして「戻ろう」と母屋に目を遣った。
(続く)




























