左回りのリトル(22)
- カテゴリ:自作小説
- 2026/06/13 01:10:26
37度8分。河野は「俺のおかげだ」と言った。
「ごめん、寝てないんだろう」
「いい、着替えさせるので転がすのにさんざん蹴ったから」
それじゃ空さんごゆっくり、と河野は頭を下げて出ていった。
「今の人」
「見た事あるでしょう」
実物ではなかったけれど、とは言わない。僕は額の冷却シートをはがした。
「こんなの貼っつけるような奴。憎めないよね」
笑うと咳が出る。空は扉を振り返った。
「この前見た時と雰囲気が違った」
「うん」
「野宮君も」と言われて笑みを返した。久しぶりに聞いた河野の笑い声、穏やかに話せた事、息を切らせてやって来た空。
「何かぐるぐる回ってるよ」
「大丈夫?」
「うん。回ってるのは大きな螺旋。何だろうな、これ。とても気持ちがいい」
お茶でもいれよう、と起きあがった。ずっと寝ていたからか背中が痛い。空が心配したが、動いた方が楽なのだと答えた。
「今日、山崎君が挨拶に来た。全然話せなかったけど」
空は正座した膝の上で組んだ両手を見下ろして言った。お茶をいれて戻る時、河野が持ってきた雑誌が目についた。それを取って空の傍らに座り、空木秀二のページを開いて彼女に見せた。
「この『空と歩く』って、よく見えないんだけど」と、僕は絵の中の人物の足元から後ろへ伸びる黒い線を指さした。「これは?」
「この絵、見た事ない」
「知らないの?」
「守屋さんなら知ってるかも」
今度訊いてみる、と空は言って雑誌を手にした。初めて見る絵と父の履歴、作品への評価。短い記事を熱心に読んでいた。
「この本どうしたの」
「河野、さっきの彼が持ってきた」
美久から預かって、とは言わなかったが、彼女にはもう見えているんだろう。それが彼女を怯えさせてしまわないように、と静かに願ってみた。
「父の絵が好き?」
「うん。空と出会わなかったら、きっとこんなふうにいろいろ知りたいとは思わなかったかもしれないけれど」少し疲れて目を閉じた。「『水からの飛翔』は胸に深く残ったと思う」
そう言いながら、美久と同じ言葉を選んでいる事が痛かった。
「前の家のアトリエで、父が『水からの飛翔』を描いている間、父は絵の中に誰かを見ていた。私が父の前に立っている時も」
空は絵のように目を閉じた。
「いつも父は誰かを思い出していた。私は子供の頃からそれを感じてた。母がまだ家に居た頃から、母と別れた後にも、ずっと変わらず同じ人への思いが父の中にはあった。静かに、水が広がるように」
声は彼女を中心として細波が立つように広がって、『水からの飛翔』と彼女が重なって見えた。今にも飛び立ってしまいそうだ。僕は片手を彼女の頬に当ててくちづけた。唇を離すと彼女はゆっくりと濡れた目を開いた。
「とても静かで、だけどそれはあの絵のようにざわめく事があった。一度だけ、ぼんやりと誰かが見えた事がある」
空の目が僕を射抜く。
「母じゃなかった」
僕は触れていた手を放した。
「私は絵じゃない。彼女と重ねないで」
「きみも」見つめ返す。「僕と空木秀二を重ねている」
空は鞄を手にして立ち上がった。僕も立ち上がると軽い眩暈がした。壁に手と頭をついて彼女の顔を覗き込んだ。
「確かに僕は今、きみと美久を重ねている。だけど間違えたりはしない」
僕はふうと息をつき、背中で壁に寄り掛かって座り込んだ。
「それだけ。もう遅いから、気をつけて」
「…お大事に」
扉が静かにぱたんと閉まる音を聞きながら、河野、僕も同じだ、と思った。
翌日も僕は部屋で寝ていた。夕方には熱も下がり、散歩がてらに買い物に出たりした。十時のニュースを見ている時に電話がかかってきた。「山崎」といきなり簡潔に名乗る。わかりやすい奴だ。
「野宮、明日バイト休みの日だったろう。俺様が会ってやる」
「会ってください、の間違いだろう」
「まあ聞け。おまえ空ちゃんに、空木秀二の『空と歩く』の話をしたんだって?で、空ちゃんが画廊の守屋氏に尋ねたところ、『空と歩く』が高畠サンの所にあったんだな、これが。世間から忘れられて久しい一枚ではあるが、空木が親友に贈った記念碑的作品てな訳だ。そんな物に興味を持つ若者がいるとは、と高畠サンがおっしゃるので、何の事かと尋ねてみれば、ちょっとあんた聞いてくださいよ、俺様の家来、野宮柾の事だったのだ」
「殿様か近所のおばさんかはっきりしろよ」
「高畠サンは、山崎君の友達なら、見せてやってもいいとおっしゃっている」
「会ってください」
「そう言うと思った」山崎は笑った。「この話を逢坂の横でしなければならないのが不運だった。奴はもうその気になってる」
少し遠くで声がする。「暇な山崎につきあってるんだから、これくらいの特典がなくちゃね」
山崎は高畠氏の住所と最寄り駅を言い、午後七時と指定した。急いでメモを取る。
「晩飯は上寿司と俺が今決めた。せいぜい腹空かして来い」
逢坂の笑い声を聞きながら「空は」と尋ねた。
「仕事だよ」
「そうか」
「露骨にがっかりしてんじゃねーよ」
「いや、」思わず溜息が出る。「そんなんじゃないんだ」
「……」山崎は少しの間を置いて「まあいいや。遅れるなよ」
電話を切った後で「暇な山崎」という言葉を思い出した。まだ次のバイトを決めていないのだろう。
あんな事があった後で、会わない時間が長いと怖くなる。
河野を避けていた時のように。
山崎が頭を下げて辞めていった時のように。
だから変わらない二人が嬉しかった。
僕も変わらずにいられるだろうか。
(続く)




























