左回りのリトル(21)
- カテゴリ:自作小説
- 2026/06/13 01:07:08
河野が差し出したのは雑誌だった。洒落たデザインの表紙の『8月号』で、古本だとわかる。去年の七月。約半年前だ。僕は急いで表紙をめくった。
目次の下の方、『空木秀二』の文字が目に飛び込んできた。
時期から見て、急いで差し込んだものなのだろう、たった一ページの記事だった。彼の代表作として大きく『木霊』の写真が、下の方にもう一枚の絵の写真が小さく載っていた。
───独自の世界観と透明感のある画風で我々を魅了してきた空木秀二が6月×日、交通事故で急逝───空木は194×年、東京都に生まれ、T美術大学を卒業後は出版社に勤め───35歳の時に『空と歩く』で─── 8×年の『木霊』で脚光を浴び───
緊張しているのか、内容が頭に入らない。活字を目で追う僕に深く残ったのは次の部分だけだった。
───その名に運命づけられたように「空(そら)」と「空ろ(うつろ)」を描き続けた
隅には『空と歩く』とキャプションがついた写真。横長の絵だ。淡い青の空、右の方に横向きの人、性別のない影のような姿だ。写真が小さくてよくわからない。それが右を向いて歩いている。『空を歩く』の誤植かと思ったが、本文も『空と』になっている。疲れて本をぱたんと閉じた。
僕が本を見ている間に河野が鍋をストーブから下ろして、僕のデミタスカップと彼のぐい呑みに酒を注いでいた。
「何だった」
「わからない、今は考えられない」
頭痛がしてきた。壁に寄り掛かる。
「話があって来たんだろう」
「うん。一発殴ってやろうかと思ってたけど、顔見たらどうでもよくなった」
「酒持って喧嘩に来たのか」
「喧嘩の後に酒を酌み交わすっての、一度やってみたかったんだ、俺」
僕らは「ははは」と力なく笑った。河野の迫力ある笑いをもうずっと聞いていない。
「殴られるような事したかな僕」
「してない。俺の気持ちの問題」
「よかった、どうでもよくなってくれて」
彼はさっきから煙草をくわえては手にし、火を点けずにいた。
「言えよ」
「ああ」と答えて彼はライターで火を点けて、煙を吐き出した。
「野宮と及川ってさ」
「うん」僕はカップで酒を呑む。何か変だな、と思う。
「端で見ていてつきあってるって感じしなかった。何て言うかさ、一緒にいたくている二人」
僕は目と指で、一本貰っていいか、と尋ねた。河野が煙草と火を寄越す。煙が喉に痛かったが、黙っているのにはちょうどよかった。
「本能的に」彼はふっと笑う。「一緒にいる。ただもう相手が必要っていう欲求だけ」
僕は頷きながら灰を落とす。
「いいのか」
「何が」
「離れて」
煙草を吸い終わるまでの沈黙を、河野がどう読むかが気になった。目の前に『左回りのリトル』の幻が現れ、僕は螺旋を駆けて時を遡った。美久。
僕は煙草をもみ消しながら話し始めた。
「美久と僕は一緒にいてぴったり合わさる形をしていたけど、それはループだった。僕らには『今』っていう時しかなくて、何も生まれず何も残らず、未来だけじゃなく過去さえないような、そういう『瞬間』にしかなれなかった。それがどんな事かわかるか、河野」
「……」
「だから、僕らは時間に従う事を選んだんだよ」
「そういう話し方、そっくりだな、おまえたち」
「殴りたくなった?」
「いいや」河野は二本目の煙草に火を点けた。
「及川と話していると野宮を思い出す。感じ方話し方が似てるのもあるけど。及川はおまえといると怖いって言ってた。同じ事を感じていたからだと思う。だけどおまえの言う『瞬間』になれるような存在は、とても貴重で、手放したくなかったろう、とも思うよ」
僕は酒を注いだ。酔いが回るのが早い。ふらついてきた。
「だから俺は彼女を抱けなかった」
「…それで、殴りたかったのか」
「まあな」
「大丈夫、彼女は、河野となら、右回りの、時間を、たどっていけるって、思ってる」
「右回りって何だ?」
「酔った。すげえ目が回る」
咳き込みながら床に転がった。咳なのか吐き気なのかわからない。
「おい、大丈夫か」
「揺するなバカ」
「あ、やべえ」
暗転。
ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる。
おーい。
おーい。
こだま。
こだま。
電話のベル。
はい、野宮です。
「空?」
どこかの深みに沈んでしまいそうな危うさから。
どこへでも飛び立てる期待感。
「空」
その存在は世界の隙間という壮大な流れを漂い始めるんだ。
「水」
ひやり。
冷たい感触で目が覚めた。いつのまにか布団の中だ。額に何か貼られて、それが冷たい。
「何これ?」
「お子様用冷却シート」
何でこんな物があるんだろう。
「熱があったんなら、早く言え、バカ。今朝、39度以上あったぞ」
今朝?起きあがろうとする。
「…すごい」
「何が」
「動けない」
「気のせいだ」
昨夜、話の途中で熱と酒と久々の煙草で倒れ、その後河野は丸一日、僕についていたのだ。彼は僕を着替えさせたり、薬や氷、この冷却シートを調達したり食事を採るので何度か外に出たらしいが、僕はまったく覚えていなかった。
「天使の夢を見ていたのに、正体が河野だなんて」
「そんだけ言えれば大丈夫だ」
電話があった、と彼はメモを読み上げた。
「午後3時30分。双月堂の丸山さん。伝言は『お大事に』」
無断で休んでしまった。
「ついさっき。ウツギさん」
「え?」
あの電話嫌いの空が、と飛び起きて、そのまま前のめりに倒れた。「ほら、気のせいだったろう」と河野。
「野宮君の具合はいかがですか、って可愛い声だったぞ」
「それで」
「おまえが何かウワゴト言ってたから、今にも死にそうです、って答えた。そしたらすぐ来るって」
「なんてこった」
「可愛いじゃないか、心配しちゃって」
「バカ、空は、」僕は河野を睨んでやった。「何でも言葉通りに受け取っちゃうんだ」
「空?」
「空の木って書いて空木」
扉の向こうに足音が聞こえてきた。走っている。
「天使のおでましだ」
「え?」
「まずい、早く死にそうなふりをしろ」
死にそうなふりって、どんなだ?僕は慌てて寝たふりをした。
チャイムが鳴って、河野が扉を開けた。枕元に空が座る気配。視線を感じる。空が河野に「あの、」と尋ねる声。
「遅かった…」
何て事を言うんだ。そう思いながらもその芝居がかった声がおかしくて、僕は何とか笑いを堪えていたが、空が沈黙の末に涙声で「そんな」と言ったのでとうとう吹き出してしまった。同時に河野が笑い出した。
「ほ、ほんとに、ほんとに」あっはっはと笑い転げる河野。「本気にしてる!」
空は呆然としたまま涙目で僕を見ていた。僕は笑いすぎて咳が止まらなくなってしまった。
(続く)




























