左回りのリトル(20)
- カテゴリ:自作小説
- 2026/06/13 01:04:48
「雪なのに、そんなに寒くないね」
「風がないから」
「そうか」
逢坂と別れた後で、僕と空は地下鉄の駅まで歩いた。店のあるビルとは逆方向だが、飲んでいた居酒屋は隣駅との中間地点にあった。途中で買ったビニール傘ひとつで、高層ビルの脇を抜けて行く。
「結構積もってる」
「本当だ」
高層ビルの足元の公園は、通りと対照的に白く、外灯に照らされて青く滲んで見えた。木々の枝の影が細い。
「『水からの飛翔』みたいだね」
僕が言った。顔を見合わせる。空は嬉しそうに笑うと、傘から飛び出して公園の中へと駆け出した。僕はゆっくりと後を追った。彼女はふいに振り返って叫んだ。
「こんな感じー?」
僕は少し離れた位置で立ち止まり、生きた『水からの飛翔』を鑑賞した。背後の噴水は水を止めたばかりなのだろう、濡れて黒く光っている。それがあの水面を思わせた。空は目を閉じて、背筋を伸ばしてすっと立つ。髪は短く赤いが、画廊で出会った時の感動が戻ってきた。
「うん、きれいだよ」
空は目を開けて何か言おうとしたが、言葉が見つからないようだった。
「でもちょっと違うな」
「何?」
「脱がなきゃ」
「えっち」
僕は傘を空に渡して、噴水の黒い石の上に登った。少し歩いて奥まで行き、彼女に横顔を向ける。絵の中に佇む人を思い出しながら言う。
「『木霊』」
空も噴水の上に登る。僕から離れて対角線上まで歩いた。ちょうど傘が木のように見える。「こう?」
「こう?」
「なあに」
「なあに」
「こだまだから?」
「こだまだから」
「おーい」楽しげな空。
「おーい」
「野宮君」
「空」
「違うよ」
「合ってるよ」
「こだまでしょう」
「こだまでしょう」
「……」
「……」僕は両手をポケットに入れた。「こだまは呼び合って近づくんでしょう」
「…うん」
「おーい」
「おーい」
「空」
「野宮君」
「空」
「野宮君」
「ブースカ」
「ブ、」言いかけて戸惑う。「ずるい、反則」
あははと笑って、ふと思った。
「ねえ」
「ねえ」
「あの絵の中の人や木なんかのスピリットが、こうして呼び合って近づくなら、それを伝えるのは空間に満ちる何者かなのかな。隙間もなく身を捩る苦しみに耐えて伝えるのかな。魂を引き寄せて結ぶために。そしてそれがきみに見えるような思いの姿なら」
「……」
「これが空木秀二の優しさだよ」
空は答えずにまっすぐ僕を見た。沈黙の間を雪が舞っている。
「こだまが返ってこないぞー!」僕は片手を高く挙げて振った。
「こだまー!返ってこい!」
「これが、」空はぎゅっと目を閉じた。
「これが空木秀二だよ!」
お父さん、という声と涙がこぼれた。
僕は滑る足元に気をつけながら彼女に歩み寄った。
「いつも後ろを歩いているみたいだった。だけど時間の上を歩いて、追いついてしまいそう。お父さんの時間はもう止まってしまった」
触れたくなって抱きしめた。傘が落ちて転がった。時間が止まるのは死のせいばかりではないと思った。
「…きゃあって言わないの?」僕が尋ねた。
「内心、言ってる」
「嫌?」
「嫌じゃないけど、少し困る」
「どうして」
「彼女の気配がする」
空は僕の胸を手の代わりにして額に当てた。「野宮君に惹かれるのは辛い」
水の上を、
美久が漂っていく。
時間を止めて。
翌日、山崎の一件を聞いた店長は本社に異議申し立てをした。自分に無断で解雇を決められたのだから当然だった。もちろん、それが何になる訳でもない。
「山崎がいないと棚の一番上の物が取れねえ」
店長らしい寂しさの表現だ。『スタッフ募集』の貼り紙を作る空も辛そうだった。
「山崎にはかなわないな」
土曜日で山崎のいない穴を埋めるために僕も一日店に入った。空と二人、早番で上がった帰り道の地下鉄の中だ。ドアにもたれて揺れながら、僕らは爪先を見て話した。
「空のためにクビかけるんだもんな」
「山崎君は本当に絵が好きで、描く事を大事にしてる。私のためだけじゃなかった」
「うん。わかる」僕は咳き込みながら答えた。
「大丈夫?」
「雪の中で木霊ごっこしてたせいかな」
声が枯れてきた。朝起きてから喉の調子が悪い。
「あの本多さんて人、周りに本社の圧力っていうのか、そういうのが見えてた。山崎君もそれを感じたんだと思う。あの人の周りのいやらしさも、山崎君の激しさも、怖かった」
「僕は何もできなかった。空にも山崎にも」
「野宮君は冷静だった」横目で僕を見上げた。「わかってた。どうしようか、ばーっと頭の中で計算してた。でも山崎君のスピードに追いつけなかった」
空はふふ、と笑った。「前に言ってた通りだったね」
「え?ああ」そんな話をしたっけ。ほんのひと月くらい前の事なのに、ひどく懐かしかった。
電車が空の降りる駅に滑り込む。シューと音を吐き出してドアが開く。「お疲れさまでした」と言って空はホームに降りた。階段へ向かって歩く姿を見ながら、追いかけたいのを堪えた。ホームに響く「閉まるドアにご注意ください」。彼女は立ち止まって振り返った。
ドアが閉まった。窓の向こうに、佇む彼女を見えなくなるまで見ていた。
僕の部屋の扉に寄り掛かって座り込む人影に驚いた。
「よう、先にやってるよ」
河野は笑って空いた片手を挙げた。僕は彼の前にしゃがんで「マイぐい呑み持参か」と手元を覗き込んだ。
「だって寒かった」と言う河野を見ながら、僕は彼のこういうおおらかで大胆なところが好きだな、と思った。「ほら、これ」と彼は酒瓶を見せる。
「おお、久保田」
「だから早く中に入れろ」
部屋に入って、河野はフライトジャケットも脱がずに火を点けたストーブの前に陣取った。「熱燗にしてくれ」
「今日はどうしたんだ」燗をつける用意をしながら尋ねた。
「ん、ああ」グリーンのリュックから煙草と本を取り出す。「まだ土産がある」
ようやくジャケットを脱いだ河野はこちらに向き直った。
「及川から預かり物だ」
徳利代わりのマグカップに酒を注ぐ手が止まった。彼はくしゃくしゃと頭を掻いた。僕は「そうか」と答えて、何事もなかったように湯を張った鍋にカップを入れ、それをストーブの上に置いた。
(続く)




























