左回りのリトル(15)
- カテゴリ:自作小説
- 2026/06/12 11:13:01
鍵を開ける扉の向こうで電話のベルが鳴っていた。慌てて部屋に飛び込む。「はい、野宮です」と留守電のテープが回りだしたところで受話器を取った。
「もしもし」
「……」
「……」
「及川です」
声も出なかった。壁に寄り掛かってずるずると座り込んだ。
「…もしもし?」
「はい」何て他人行儀なんだろう。「どうしたの」
「この前の、」美久は用意した台本を読むように抑揚のない声で言った。「手違いって何だったのかと思って」
「ああ」
耳をふさいで僕を見つめる空の顔が懐かしくなって、少し笑った。
「うん。勘違いなんだ」
「勘違い?」
「うまく説明できないよ」
僕がふっと笑うと、美久は少し安心したようだった。
「何か、心配してくれたみたいで」
うん。でも、言わない。
「河野と、絵を見に行ったんだってね」
「……」
「空木秀二って覚えてる?」
「水の上の裸婦ね」
「うん」
やっぱり、きみなら覚えていると思ってた。言葉を探す必要もないと思える、長い沈黙。以前にも何度かあった似たような沈黙より、ずっと静かで深い。それはただ寂しさを交わしていた頃と今が違うという事なんだろう。
「…胸に深く残る絵だった」
同意してしまったら、また僕らの何か───何か、としか言いようがない───が縺れてしまいそうだった。それには答えずに僕は言った。
「河野がその時のパンフをくれて、空木秀二の絵と出会って」
数秒、言葉を選んだ。
「僕は今、旅をしてるんだよ」
「旅?」
「空木秀二のメッセージを探してるんだ」
「メッセージ」
「友達の受け売りだけどね」僕も美久も笑った。
「友達と、大事な女の子と一緒に」
美久の沈黙が痛い。だが待つしかなかった。
「そうね、きっとみんな旅をしてるんだわ」
「うん」
「いい旅を」
「きみも」
受話器を置いて、深く息を吐いた。「大事な」と言った瞬間から、どうしようもなく空に会いたかった。
部屋が寒い事に気づく。帰ってきてから、何もかもがそのままだ。コートも着たままだったし、右手には鍵も握っている。僕はすぐに出かけた。
今日二度目の来訪に、空は驚いていた。「顔が見たかった」と言いながら、どこかで聞いた台詞だと思う。「顔?」と言って彼女は不思議そうに両手を頬に当てた。反応がいちいち『空』なのがいとおしかった。僕は靴を脱ぐ間も惜しんで彼女を抱き寄せた。何か言おうとする彼女に「動かないで」と言った。じっとする素直さ。「何かあったの?」僕は黙って首を横に振った。
「彼女が泣いてる」
僕も泣いていた。
(続く)




























