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左回りのリトル(14)

 僕はこの前来た時と同じ位置に膝を抱えて座り、『左回りのリトル』と向かい合った。ここからだと真正面から全体を見られる。
 山崎が絵だけ見てすぐに帰ったのが不思議だった。彼は空に好意を寄せていると思っていたけど違うんだろうか。僕を残すなんて。いや、帰ろうと言ったのは逢坂だ。けれどいつもの山崎ならそこで「ハニーと離れたくない」くらい言う…。
 いや、山崎はそんなふうに好意をあからさまに示す奴ではない。
 何か理由があるんだ。空の前で山崎が饒舌になる理由。
 饒舌といえば、あの逢坂が逆に喋らなかったのではないか?そう、「絶望の予感」と結論づけた事で終わった筈の話が、中途半端に感じられる。
 空が「はい」とカップを差し出した。目の前にぬっと現れたので驚く。ありがとうと受け取って、冷たい紅茶を飲んだ。彼女はそれを見ているだけだ。
「空は飲まないの?」
「唯一の食器、それ」
 びっくりして白いカップを見た。食事はどうしているのかと尋ねると、家では食べない、一人で食べに出かける訳でもない。高畠氏の心配ももっともだ、と思った。
 見るたびに吸い込まれそうだと思う赤い螺旋は僕らの言葉を呑み込んでしまったらしい。並んで座る僕らは黙って絵を見つめている他になかった。何かの呪縛。
 それに気づけば動き出せる筈だ。僕はゆっくりと口を開いた。周囲の空気が重くて、と空が言ったのを思い出す。それはこんな感じだろうか、と。
「絶望の予感は少女の足を止めないのかな。見ている僕は動けないのに彼女は螺旋を駆けてゆく。向こうにもうひとつの予感があるように」
 空は「もうひとつの予感」と言って抱えた膝に頬を載せて丸くなった。




 日が暮れる前には自分の部屋に戻った。読みかけだった推理小説の続きを読んでいると、山崎から電話がかかってきた。夢中になっているうちにずいぶん時間が過ぎていた。
「どうだった、あの後」
「落ち着いてたよ。一時間くらいで帰った」
「ならいいけど」
 僕は気になっていた事を口にした。山崎は「俺も」と言って、空の部屋を出てからの事を話した。
「父親が死ぬ直前の絵を見て絶望の予感なんて、突き落とすような事言って」
 駅までの道を戻りながら山崎が言うと、逢坂は「僕に話せるのはあそこまでだったよ」とさらりと答えた。
「どんな作品にも作者のメッセージがある。空木秀二のメッセージを僕が伝える必要はない。見る人が空木秀二から直接受け取らなければいけないんだよ。そうでなければ、彼は何のために描いていたんだ」
 そう言って彼は「わかるだろう山崎」と真顔になった。
「あいつにわかって俺にわかんねーのがくやしい」
「そうかな」ふいに胸にこみ上げて来たものが言葉を押し出した。
「絶望の予感なんて、わからない方がいいかもしれない」
「……」
「行く先に袋小路が見えていたら」
 僕と美久のように、
「走るのをやめるしかないんだよ」
 息苦しさを感じて、僕は受話器を持ったまま部屋を横切って窓を開けた。外の冷えた空気と物音が入り込む。
「山崎、」
「うん?」
「今日、何か変だったよ、おまえ」
「そうか」語尾に溜息のような笑いがついた。
「何で僕を残したんだ?」
「俺には逢坂の言う空木秀二の優しさがわからなかった」
「僕だってそうだよ」
「どっちにしろ」と言ってから少しの沈黙があった。待つ間の重苦しさを山崎がふうっと破った。「俺には無理だったよ」
「何が、」
「じゃあな、切るぞ」
 彼は一方的に電話を切った。結局、疑問が増えてしまった。
 山崎が送り込んだ不透明な空気が天井から降りてくる。僕はストーブを消すとコートを手にして部屋を出た。夕飯をとって本屋に寄った。活字は重く沈み記憶に堆積するものだろうか。それなら、絵はどうだ、目に鮮やかに焼き付いて跡を残すものだろうか。
 僕には、そしておそらく山崎にも、『左回りのリトル』は火傷のようにひりひりと痛かった。まだ『水からの飛翔』の痛みさえ取れない僕は、その理由を探っていた。
 空木秀二に関する書籍は見つからなかった。そんな物が役に立つとは思っていなかったけれど。

(続く)


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