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左回りのリトル(13)

 山崎と逢坂は二十分も早く待ち合わせ場所に着いたという。
「俺、昨夜は興奮して眠れなかった」
「僕も。空木秀二の遺作を個人的に見られるなんてね」
 駅まで迎えに来た空の後について歩く。平日の昼間、賑わう通りから路地に入ると静かな家並みが続く。どこからかテレビの音が聞こえてきた。
 部屋に入ると二人は『左回りのリトル』の前で、コートも脱がずに立ち尽くした。僕もそうだった、とあの夜を思い出した。
「下描きが見えるね」と逢坂の小声。山崎は答えなかった。
 静かだった。
 空木秀二の世界を前にして、息を殺してじっとしていた。
 どれほどそうしていたのか、山崎がぽつんと「時間だな」と言った。「うん」と逢坂が同意する。彼が話しだすのを僕と山崎は待った。
「タイトルはあるの?」
「左回りのリトル」空が答えた。
「左回りか。梢子さんはこれをどう思いますか?」
「破滅的」
「なぜ?」
「壊れていく予感がする」
「予感か」
 彼は数歩後ろに下がって絵全体をとらえようとする。「なるほど」
 山崎が「始まるぞ」と言ってニヤリと笑った。
「この螺旋が左回りであると決定づけているのはこの少女の向きだよね。これがなければ螺旋を右回りに見てもいい訳だ。こちらへやってくるものとしての螺旋、破滅の予感としてはその方が効果的なんじゃないかと思うけど?」
「恐怖心を煽るかも」と僕。
「逢坂、医者より評論家の方が向いてるんじゃないか」と山崎。逢坂は山崎をちらりと見て苦笑した。
「左回りである必要があるんだね。螺旋は何の象徴なのか」
「不安」と空。
「それなら向きは関係ない」
「消滅」と僕。
「うん、左回りに見ればね」
「時間の流れ」と山崎。
「正解。ここで向きが問題になる。時間に向きがあるとすれば」
「過去と未来」と空。
「では、左回りはどちらを目指しているのか」
「過去」と僕。「この絵全体が一つの時計じゃないか?右回りは時計回り。だから時計の針を逆に回すんだ」
「時計回りの逆、と答えが導き出されたところで」と逢坂はにっこりと笑った。「背景だけど、この塀や建物の形を歪めて時計の歯車に似せてある事でもこの絵が『時』をテーマにしているのは明らかだよね。鳥の群は、断言はできないけど、例えば僕なら人間に置き換えてみる。空から降りてくる様はヒッチコックの映画『鳥』さながら襲ってくるようだと思えない?畏れの予感がこの絵にあるのはそのせいもあるけど」
 逢坂はそこまで言って僕らを見回した。誰も何も言わないので、目を絵に戻して続けた。
「逃れるように螺旋をたどる少女、リトルとでも名付けようか、リトルは時を遡ってゆく。その先にあるのは何だろうね。母の胸か、安らぎの懐かしい日々か、この絵の不安な赤い夜空から時を遡って逃れるなら」
 逢坂は空を振り返った。
「予感があるとするなら、それは絶望の予感だよ。時は戻らないのだから」
「逢坂さん」
「何ですか」
「父は、絶望していたんですか」
 空の声が震えていた。空木は自殺したかもしれない、と高畠氏が彼女に言った筈はないと思うが、周囲の空気に敏感な彼女の事だ、そう考えていたとしても不思議はなかった。
「あくまでこの絵のテーマを話しているんですよ」
 そう言って彼は深く微笑んだ。「帰ろう、山崎」
「ああ」
「見せてくれてありがとう。辛い話だったと思うけど、」と、彼は帽子をかぶってから続けた。
「僕はこの絵に空木秀二の優しさを感じた。それはわかってください」
 それじゃ、と部屋を出る二人の後に続こうとすると山崎は「おまえはいい。熱があるんだから」と僕の肩を叩いた。「ゆっくり休め」
「お大事に」と医者の卵、逢坂も笑う。扉がばたんと閉まると、空は「野宮君、熱あったの?」と訊いた。空を一人にするなという事なのはすぐわかったが、どうしよう?
「熱、あるかな。測ってよ」
 空の額に僕の額をくっつけた。「どう?」「わかんない」彼女はじっとしている。それがあんまり無防備だったので、おかしくて笑ってしまった。

(続く)



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