左回りのリトル(11)
- カテゴリ:自作小説
- 2026/06/10 15:19:54
そこまで話した時、彼女の部屋の扉が重い音を立てて閉じた。
暗闇。ぞっとした。
「ちょっとどいて、」掠れた声に僕は一歩下がった。背中が壁にぶつかる。空の手のひらが胸に触れた。「野宮君、そこ、スイッチの前」慌てて横に歩く。パチン、と明かりが点いた。細長い廊下の先に暗い部屋があった。そこから手前右に台所、トイレとバスルームと思われる扉が二つ、そして今僕らがいる玄関。「どうぞ」と促されて奥へ進んだ。
少し広いワンルーム。弘一伯父が秀二宅を引き払い、空は画廊の守屋氏が見つけたこの部屋に移ったのだという。部屋は扉から右に広がっていた。クローゼットを備えた部屋にある家具といえば、ベッドとフロアライトだけ。驚くほど何もない部屋だった。
まるで部屋全体が、空木秀二の遺作のための額のように。
それは壁一面の赤だった。
その時の彼女の異常な言動は父親の突然の死のショックによる一時的なものと医師は診断したが、情緒不安定な梢子に生活能力があるとは思えなかった。梢子の後見人には弘一がおさまったが、彼女が伯父を毛嫌いしているのを知っている高畠と守屋が実際に面倒を見たのだ。
空木秀二の遺品である数々の作品。秀二が手放さなかったそれらを全て守屋が買い取った。そして、その金と自宅が梢子の受け継いだ遺産という事になり、それを弘一が管理する、という形をとった。
ただ一枚、『水からの飛翔』のために。
守屋は弘一から『水からの飛翔』を守り、梢子に残したいと考えたのだった。弘一が秀二の絵を手元に残すとは考えられず、案の定、弘一はあっさりと家を売った。梢子に残されたのは『水からの飛翔』とわずかな素描、そして、最後の一枚だった。
「これが、」
まずその大きさに驚いた。ほぼ壁一面を覆う。窓から入れたのだろうか…と、くだらない事を考えてしまう。守屋氏がこの絵に見合う部屋を探したのだろうと想像できた。
赤の濃淡を基調にしたアクリル画。
全体に描かれた、見る者を呑み込もうとするような大きな螺旋。それは不可思議に歪んだ階段でもあった。階段は───呑み込まれるという印象からして───左回りに、中央に向かって遠く細くなってゆき、奥で消失している。その階段をやはり中央に向かって、昇っているのか降りているのかわからないが、数人の少女が歩いている。その姿からして同一人物が移動している様なのだろう。空にはオレンジの弓のような月がかかり、赤黒い影の鳥の群が月から逃れるようにはばたいている。螺旋の背後に見える暗い町並みは時計の内部の歯車のように、噛み合い、縺れ、回転しているようだった。
「左回りのリトル」
「……」
「死ぬ直前まで描いていた、未完成の」
「未完成…」
確かに、近づけば所々に下書きの線が透けて見えた。僕は空を振り返った。
「完成したところが見たかった」
空は微笑んで、「私も」と言った。
部屋までの道々に空はこれまでの事を語った。父の死後しばらくぼんやりと暮らしていた事。自分で暮らしていけるようにならなければいけないとようやく思えた事。絵の事しか知らない彼女が働ける場所として高畠氏が双月堂を勧めた事。高畠氏と守屋氏の世話になっている事。父と両氏の関係。そして、部屋に着く頃に事故当時の話までたどり着いたのだった。
「伯父は絵がわからない人。もしかしたら絵がわからないんじゃない、父がわからなかったのかもしれない。父の絵を見るたび、父を怖がってるみたいだった」
「怖がって?」
僕らはベッドの縁に寄り掛かって並んで床に座り、『左回りのリトル』を見ながら話した。床暖房で体があたたまると、爪先がじんと痺れてきた。空はベッドの下の抽斗を開けて、絵葉書を出して僕に寄越した。山崎の持っていた物と同じ『木霊』だ。
「伯父は父のこういう絵を見ると、いつも『秀二はいかれてる』って、だれかれ構わず言ってた。父が子供の頃、こんなふうに見えるものの話をしてたって」
空は膝を抱えて、セーターの袖口を引っ張った。
「だから私の事も嫌ってた。私も嫌いだったけど」小さく笑う。
「高畠さんが、お父さんが亡くなったよ、事故で、と言った時、何を言い出すのかと思った。私には父が見えた。きっと高畠さんの思いだったんだと後で気づいたけど、その時はあんまり父がはっきり見えるから信じられなかった」
「それだけ高畠さんがお父さんの事を思ってたんだね」
「……。だけど、伯父は、私を、指、さして」
空は声を震わせた。息を詰まらせ、細切れの言葉を吐き出す。
「ほら見ろ」
弘一が何を言ったかすぐにわかった。
「あの秀二の娘だ」
「よせ」
「やっぱりこいつも」
「もういい、やめろ」
「頭がおかしいんだよ」
「空」
「何度も病院を」
「もういいから」
空を黙らせようと、僕は彼女の頭を胸に抱え込んだ。
「もういい」
「私だっておかしいんだと」
「黙れ」
もう片方の腕も伸ばして抱きしめた。こうでもしなければやめないと思った。
腕に伝わる彼女の震えや細い骨格が、僕の中の何かを呼び覚ます。人に触れるという事、腕の中に誰かがいるという感触の現実、つまりそれは自分ではないものが、
≪刺をさすように≫
≪内部に入り込んだとさえ≫
≪痛みを伴う異物感≫
≪あるいは充足感かもしれない≫
これは、
何だ?
疑問と、空の感触への渇望が、ぐるぐるぐるぐる、閉じた目にまだ見えている赤い螺旋のように痛く痛く痛く、
≪さみしさが増すだけなのに≫
僕にはまだわからない、きみはもう答えを見つけたのか。
このまま、
このまま、何だというんだ?
空が身じろぎした。
「放して」
「いやだ」
なぜ僕はこうしているのだろう。そうだ空が壊れだすように見えたから、けれどどういう事なんだろう、腕に力を込めて、すがりついているのは僕の方だった。何かがおかしい。どこかが曲がっている。
ゆっくりと腕をほどき、僕らはひどくくたびれて離れた。間に一人分の空間があった。今まで当たり前のように見えていたのに、そこだけひやりと冷たい。そこには見えない水がある。
「病院に通ってた頃」ぽつりと空が話し始めた。落ち着いた声だった。「外に出るのが怖かった。見えなくても何かあるのだけわかって。空気が重い。何かのせいで。重くて重くて、歩けなくなって入院した。だけど何かは、怖いだけじゃないんだって教えてもらった」
「誰に?」
「センセイとか、お父さんとか、高畠さんとか」
「うん」
「でも、今、私もお父さんにどうしたらいいのか訊きたい」
ちくりと刺さる。「何を?」
「死んだお父さんがはっきり見えて、この絵の意味がわかった」彼女は『木霊』の葉書を拾い上げて角を額に当てた。「だから、こんな時どうしたらいいのって」
僕は背筋が固くなる。もしこれが、空木秀二が本当に見ていた眺めなら。
「僕には何も見えない」ドン、と僕は空との間の床を叩いた。「ここに彼女はいない」
「見えなくても」空もこちらを向いて叫ぶように言い、声を落とした。
「さっき高畠さんの事、それだけお父さんの事を思ってたんだね、って言った。そう言い切れるのは」
刺だ。
痛い。刺を、動かさないでくれ。
「野宮君も」
「言うな」
僕は、最後の手段をとった。




























