Nicotto Town ニコッとタウン

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左回りのリトル(10)

「おう、終わったか。ご苦労ご苦労」
 店長はごつい手で僕の肩を叩いて、胸ポケットのバッヂに気づいた。
「あれ?休みは今日までじゃなかったか?」
「ちょっとなりゆきで」
「何だそりゃあ」
「山崎、と、空木さんは?」
「山崎君はさっき上がったわよ。空ちゃんは下」
 上がった、とは今日の勤務を終えて帰ったという意味だ。
「野宮、閉店までいるか?」店長が笑う。
「いえ、もう帰ります」
 明日からまたよろしくと辞した。バッヂを返すためにまた通用口を使わねばならない。従業員用エレベーターのボタンを押して、どうせなら下、休憩室に寄ってみようかと思った。打ち上げをやると言っていた河野にどこかで出くわすかもしれないし、と思いながらそれが取ってつけた理由のように感じた。
 一人になりたい。
 一人になりたくない。




 休憩室はいつか山崎が「似非倫敦」と言った通り、煙草の煙で白くかすんでいた。髪を染めているのは山崎や空ばかりではないが、それでも彼女を探すのには役に立つ。僕はすぐに彼女を見つけると、横に立って「隣、いいですか」と尋ねた。休憩室の掟なのだ。
 空は「はい」と答えるが顔を見ない。僕は荷物を置き、自販機でコーラを買って戻った。彼女は紅茶の入った紙コップを前に、頬杖をついてぼんやりしている。僕も頬杖をついてその横顔をじっと見た。いつ気づくかな、と思うと愉快になって、僕はこっそりと腕時計のストップウォッチをスタートさせた。
 注視される空は気まずそうにちらりと横目でこちらを見てすぐに視線を戻し、「あれっ」と振り向いた。僕は『G』のボタンを押した。
「1分16秒」
「何?」
「きみが僕に気づくまで」
「何それー」
 アハハと笑う僕に、空はやっと状況を理解して、それまで頬杖をついていた手をどうしようと戸惑った。
「野宮君はいつも心臓に悪い」
「ごめん」
「ううん」
 確かに僕にもどうしようもない。ただ「ごめん」と言いたかっただけだ。
 何となく黙り込む。短い時間を持て余す。
「あの後、山崎の所に行った」
 空は紅茶を飲みながら目で続きを促した。
「えーと、」山崎に口止めされている話に触れないように注意しながら、「飲んでたらあいつの友達が来て、これがまた山崎に輪をかけて変わった人でさ。『水からの飛翔』の感想というか、そんな話をしたんだ」
「うん」
「それで、その人の話を聞いて思ったんだけど、僕があの絵に、」
 言葉に詰まった。刺をさすような強烈な存在感、という逢坂の声。それは口に出すのも重いほどのものだった。空は黙って次の言葉を待っている。
「誰か、を、重ねたように、空木秀二にもそういう誰かが、いたんだなって。当たり前かもしれないけど、後から気づいた。そうしたら、何かね、こう、」
 さして絵画に詳しい訳でもない僕が、彼女の父親の絵を評するような事を言う、その恥ずかしさもあって言い淀む。
「親しみを感じる、なんて言ったら空木秀二に失礼かもしれないけど、ああわかるよって、言いたくなるような。そして、もし彼が生きていたら」
 空はコップをきゅっと握りしめて目をみはった。
「こんな時どうしたらいいですか、って、訊いて、みたい」
 これ以上はもう何て言っていいかわからなかった。僕は空の癖が移ったのか、右手を額に当てて俯いた。泣きそうな自分が恥ずかしかったのだ。あの無言の電話や先刻の河野が僕を動かそうとしている。それは僕の力ではない。情けない気持ちと不安が明確になった瞬間だった。
「野宮君には、父が解るの?」
「……」
 右手を下ろす。空と目が合った。彼女は自分と同じ仕種の意味を理解したのだろう、俯いて黙り込み、膝の上で腕時計を見て「もう行かなきゃ」と立ち上がった。
「空木さん」
「…そら」
 最初に言った時とは違う曖昧な笑みだ。
「空」
「そう」
「今日、早番?」
「うん」
「待ってていいかな」
「私も、待ってて、って言おうと思った」
 そう言って空は手にした紙コップを屑かごに入れた。
「じゃあ、上がる時間に通用口で」
 空の背を見送りながら、待っていて、それでどうなるのだろうと考えた。彼女と居ると自分が見えてくる、そんな気がするだけだ。いや、最初から彼女は美久の幻影も、自分が見ているのは僕だと言っていたんだ。僕に見えない僕を見ている空。
 僕はテーブルに突っ伏して寝たふりをした。誰にも、顔を見られたくなかった。



 空はいつもの黒いコートに赤いマフラーで、それでも通用口の扉を開けると寒そうに顔をしかめた。
「お待たせ」
「どうする?」
「うち」
「え?」
 彼女はもう何か決めた様子で、行こう、と歩き出した。
「うちって、空木さんの」
「空」
「ああ、うん」どうも慣れない。
「空木秀二の」言葉を切った。「最後の絵を見てほしい」
「最後の?『水からの飛翔』は」
「未発表の絵」
 もう一枚、描かれていたという事か。ぼんやり思ううちにそれがどういう事なのか、だんだんと理解していった。空木秀二の、世間に知られていない絵。本当の遺作だ。
 それを、見る。緊張する僕に、空は早口に言った。
「野宮君なら解る」
「僕に?」
 薄暗い地下道に僕らの声が反響する。「教えて、お父さんの事」と迫る空に、僕はたじろいだ。
「だって僕は最近まで空木秀二という画家の存在も知らなかった」
「お願い」
「空、落ち着いて」
 肩をつかまえる。空はびっくりして身をすくめた。
「僕は何にも知らないんだ、多分、きみの知りたい事は」
 空はひどく悲しそうな顔をした。僕はどうしてこうなんだ、と思った。
 河野。
 美久。
「僕も知りたい」
 空は俯いて、額に手を当てた。



 空木秀二の死を最初に知らされたのは、空───梢子ではなく、兄の空木弘一だった。警察は「自宅は留守で」と理由を述べたが、梢子が電話に出るのを嫌っていたのだ。
 秀二、梢子を苦手とする弘一は、秀二の友人であるT美大の高畠氏を伴って秀二の自宅を訪ねた。高畠が秀二の事故を告げた時、梢子は信じなかった。
「事故って、何の話?お父さん」
 高畠は梢子の見る、自分の背後を振り返ったがもちろんそこには秀二はいなかった。弘一は指をさして叫んだ。

(続く)

#日記広場:自作小説

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2026/06/11 06:10
> まりのさん
わかります。
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2026/06/11 05:43
> 小桃さん
はじめまして、コメントありがとうございます。
私は以前、煙草を吸っていて、だからかなんとなく
風景や登場人物に持たせたりして煙草をよく描いています。
今は吸ってないけど、吸いたい気持ちはよくわかる(苦笑)
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2026/06/10 15:34
こんばんわ。
私は、タバコ吸いませんが、
煙りはしょうがないですよね。



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