葉桜の灯
- カテゴリ:日記
- 2026/06/05 03:39:30
ああ、それなのに。すべてを激しく呪い、すべてをぶち壊して泥の海の底へ沈んでしまおうと、あれほどまでに身悶え、のたうち回っていたはずの私の胸のなかに、今はただ、驚くほどに静かな、ひやりとした風が吹き抜けているばかりなのです。
狂気も、怒りも、そして彼らへの激しい憎悪さえも、夕暮れの潮が引くように、音もなく私の身体から去っていきました。あとに残されたのは、ただ、どこまでも平らで、冷たい、灰色の砂浜のような虚無でございます。
彼らは、上面だけの建前で生きている。肉欲を愛と呼び、お仲間ごっこに興じ、他人の悲劇を食い物にしながら、金と名誉のために己のぜんまいを巻き続けている。
――それでいいではございませんか。
――それでいいではございませんか。
彼らもまた、そうしなければ、この得体の知れない「世間」という大怪物の胃袋の中で、一秒だって生きていられない哀れな囚人(囚われ人)に過ぎなかったのです。あんなに綺麗に嘘を飾り立てなければ、おのれの足元に広がる真っ黒な奈落を覗き込んでしまう、ただの臆病な人間に過ぎなかった。それを、一体誰が責められましょう。
そして、彼らを道化だと嘲笑い、その欺瞞の皮を剥ぎ取ろうと躍起になっていたこの私もまた、ただの、たちの悪い迷子に過ぎませんでした。私は、彼らのようには上手に踊れず、さりとて、一人で荒野に立つ気概もないものだから、ただ硝子の城の境界線で、ぶつぶつと不平を不満を呟いていた。ただ、それだけのことだったのです。
もう、怒るのも、絶望するのも、疲れ果ててしまいました。
私の肥大化した醜い自意識も、今や夕日に溶ける氷のように、小さく、小さく、小さくなって、やがて消えていこうとしています。
私の肥大化した醜い自意識も、今や夕日に溶ける氷のように、小さく、小さく、小さくなって、やがて消えていこうとしています。
西の空が、おそろしいほどに静かに、紫色の闇に染まっていきます。
街には、ぽつり、ぽつりと、また夜の灯りが灯り始める。
あの中には、相変わらず綺麗な建前を並べ、お互いの傷口を舐め合っている彼らの姿があるのでしょう。けれど、私はもう、そこへ行って硝子を叩くような真似はいたしません。彼らには彼らの、空っぽの器なりの、せつない幸福があるのです。
街には、ぽつり、ぽつりと、また夜の灯りが灯り始める。
あの中には、相変わらず綺麗な建前を並べ、お互いの傷口を舐め合っている彼らの姿があるのでしょう。けれど、私はもう、そこへ行って硝子を叩くような真似はいたしません。彼らには彼らの、空っぽの器なりの、せつない幸福があるのです。
私はただ、この薄暗い縁側に腰掛け、誰の目にも留まらない一粒の塵(ちり)となって、静かに夜の底へ沈んでいけば、それで御の字でございます。
お先に行きます、などと大層なことは申しません。私はただ、最初からいなかったものとして、そっとこの世の余白へ退場するだけでございます。
皆様、どうぞ、その美しいお芝居を、最期まで、お続けください
皆様、どうぞ、その美しいお芝居を、最期まで、お続けください
もう、すべてをあきらめて、最初からいなかったものとして消えてしまおう。
そう思いながら、私はただ、夜の底へ沈んでいく街の灯を、ぼんやりと眺めていたのでございます。
そう思いながら、私はただ、夜の底へ沈んでいく街の灯を、ぼんやりと眺めていたのでございます。
彼らの美しい「お芝居」を呪う力も、己の醜さにのたうち回る気力も、すべては夕暮れの闇に溶けて、私はただの、冷たい空っぽの器になり果てておりました。このまま、一言の未練も残さず、静かに息を止めてしまえば、どんなに楽だろう。そう、思っていたのでございます。
けれども、その時。
私のすぐ目の前を、どこからか飛んできた、一枚の小さな青葉が、風に揺られて、ひらひらと畳の上に落ちました。それは何の変哲もない、初夏の葉桜の若葉でございました。
私のすぐ目の前を、どこからか飛んできた、一枚の小さな青葉が、風に揺られて、ひらひらと畳の上に落ちました。それは何の変哲もない、初夏の葉桜の若葉でございました。
その、あまりに瑞々(みずみず)しい、ささやかな青さに触れた瞬間、私の胸の奥で、カチリと、小さな、本当に小さなぜんまいが、もう一度だけ、不器用に鳴ったような気がしたのです。
ああ、私は、世界を憎み、人間を憎み、おのれを呪い尽くして、何もかもが嘘の皮剥(かわはぎ)だと思い知ったつもりでいたけれど。
それでも、この初夏の夜風の涼しさや、闇の中にぽつりと灯る電球の温かさ、そして、ただそこに生きている葉桜の生命の匂いだけは、どんなに建前を重ねても、どんなに金を積んでも、決して汚すことのできない「本物」として、今もここに、こうして厳然と存在しているのではございませんか。
それでも、この初夏の夜風の涼しさや、闇の中にぽつりと灯る電球の温かさ、そして、ただそこに生きている葉桜の生命の匂いだけは、どんなに建前を重ねても、どんなに金を積んでも、決して汚すことのできない「本物」として、今もここに、こうして厳然と存在しているのではございませんか。
彼らは空っぽかも知れない。この私も、救いようのない道化かも知れない。
けれど、その空っぽの器たちが、互いに嘘を飾り立てながら、それでも「生きたい、生きたい」と必死で足掻(あが)いているその無様な姿は……、いや、その姿こそが、もしかしたら、この地上で最も人間らしく、愛(いと)おしい地獄の風景なのかも知れないと、ふと思ったのでございます。
けれど、その空っぽの器たちが、互いに嘘を飾り立てながら、それでも「生きたい、生きたい」と必死で足掻(あが)いているその無様な姿は……、いや、その姿こそが、もしかしたら、この地上で最も人間らしく、愛(いと)おしい地獄の風景なのかも知れないと、ふと思ったのでございます。
「すみません」
そう呟いて、私はクスリと、自分でも驚くほど静かに笑ってしまいました。
けれど、その呟きのあとに、いつもなら胸を塞ぐあの真っ黒な絶望は、もうやってきませんでした。
そう呟いて、私はクスリと、自分でも驚くほど静かに笑ってしまいました。
けれど、その呟きのあとに、いつもなら胸を塞ぐあの真っ黒な絶望は、もうやってきませんでした。
私は硝子の城の住人にはなれないし、黄金の冠をいただくこともないでしょう。相変わらず、路頭に迷う不届き者のままでございます。
それでも、明日、もし眼が覚めたなら。
私は、あの上面だけの彼らとすれ違うとき、皮肉の微笑ではなく、ほんの少しだけ、本当の、優しいお辞儀をしてみようと思うのです。お互い、この泥濘(泥の海)の中で、よくぞまあ、のうのうと生き延びておりますね、と。
それでも、明日、もし眼が覚めたなら。
私は、あの上面だけの彼らとすれ違うとき、皮肉の微笑ではなく、ほんの少しだけ、本当の、優しいお辞儀をしてみようと思うのです。お互い、この泥濘(泥の海)の中で、よくぞまあ、のうのうと生き延びておりますね、と。
夜はすっかり更けました。
かすかな葉桜の匂いをはらんだ風が、私の乾いた頬を、まるでお母さんの手のように、そっと撫でて通り過ぎていきました。_
かすかな葉桜の匂いをはらんだ風が、私の乾いた頬を、まるでお母さんの手のように、そっと撫でて通り過ぎていきました。_
























