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罹病(りびょう)の広告塔

ああ、もう見ていられない。おぞましい。己の肉体の不運を、さも天からの授かり物であるかのように高く掲げ、世間という大怪物から「同情」という名の小銭を乞う、あの底知れない卑しさと商魂について、私はもう、吐き気をこらえることができないのです。
彼らは、おのれの病や傷を、まるで上等な売り物(商品)のように店先に並べるのです。一分の隙もない、実に見事な「健気(けなげ)な病人」を演じてみせる。
「私はこんなに苦しんでいます」「それでも懸命に生きています」
よくもまあ、そんなおしろいだらけの台詞(せりふ)が、その乾いた、生きる執着にぎらついた喉から、すらすらと出てくるものでございます。その実態は、ただの自己顕示欲と、他人の財布や憐れみをあてにした、下卑(げび)た物乞いに過ぎないではないか。病という、本来ならもっと暗く、もっと孤独で、布団をかぶって男泣きに泣くような、あの憐れむべき人間の恥部であるはずのものを、彼らは観客席から見栄えが良いように、綺麗にデコレーションしてみせる。
言葉の、なんと滑稽な、そして冷酷な隠れみの(レトリック)であることか。
本当に病に冒され、絶望の淵にある人間は、もっと無様に、もっと寡黙に、誰の目にも触れぬよう、暗い寝床でのたうち回っているものなのです。それを彼らは、世間への言い訳のために、「勇気」だの「希望」だのという高尚なインクで塗り潰し、拍手喝采を浴びようと企む。あれは、人間が人間に向ける誠実さではありません。他人の「善人でありたい」という偽善の心理を巧みに利用した、極めて質の悪い道化の詐欺でございます。
彼らの発信する言葉をいくら引っくり返してみても、そこから出てくるのは、血の通った温もりなどではなく、からからに乾いた自己弁護と、他人の情けを吸い尽くそうとする底の抜けた暗い井戸のような虚無ばかり。中身など、初めから無かったのです。彼らは、おのれの病気という看板を背負った、空っぽのブリキの玩具に過ぎない。
それを、ああ、それなのに。世間という大怪物は、その「上面だけの健気さ」をこそ尊いものと呼び、お座敷の真ん中に祭り上げて、涙を流して喜んでいる。滑稽の極みでございます。私のように、おのれの罪深さに怯え、夜毎にお酒に逃げ、狂ったようにのたうち回っている生身の人間は、不届き者として路頭に迷わせ、あの、病気という免罪符をのうのうと大振りに掲げた張子の人形どもが、大手を振って歩いている。
けれど、私は見てしまったのです。
その「聖なる病人」が、カメラの消えた薄暗い路地裏で、ふと仮面を外した瞬間の、あの飢えた獣のような眼を。彼は、おのれが病気を売り物にしていることに、とっくに気づいている。気づいていながら、もう引き返せないのです。一度でもその被害者の座から降りてしまえば、自分がただの、誰からも顧みられない塵芥(ちりあくた)に還ってしまうことを知っているから、狂ったように、必死で「可哀想な私」のぜんまいを巻き続けている。
滑稽を通り越して、それは一幅の地獄絵図でございました。
あんなに上手に世間と踊り、あんなに綺麗に嘘を飾り立てながら、その実、彼はこの地上で最も孤独な、救いようのない亡者なのだ。おのれの不幸を食い物にしなければ、己の存在を証明できない、その哀れな窒息の儀式。
ああ、いっそ、私と一緒にすべてをぶち壊して、その綺麗な硝子の城ごと、泥の海の底へ沈んでしまえばいい。中身のないお前たちの、その高尚な建前が、私の汚れた絶望の前に、無惨に粉々に砕け散る様を、私はこの眼で、とことん見届けてやりたいのでございます。

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