奈落の道化
- カテゴリ:日記
- 2026/06/05 02:57:15
ああ、もうおやめなさい。その、お互いの皮膚を一枚も傷つけまいと、おそるおそる差し出し合う、おしろいだらけの「建前」という手拭いを。見ているこちらが、恥ずかしさのあまりに悶絶し、畳を掻きむしりたくなる。
世間。ああ、世間。彼らが神妙な顔をして口にする「世間」なるものの、その正体が、結局は彼ら自身の保身の影法師に過ぎないことを、私はとっくに知っているのです。彼らは、いつでも正しい。いつでも、一分の隙もない。新聞の社説から切り取ってきたような、あるいは聖書の文句を不器用に薄めたような、非の打ちどころのない善意と正論を、さも自分の内臓から搾り出してきたような顔をして語る。その口元に浮かぶ、薄ら寒い、へらへらとした微笑。あれは、人間が人間に向ける顔ではありません。ただ、剥製にされた狐が、硝子玉の眼球でこちらをじっと睨みつけている、あの不気味さと同じなのです。
彼らと一時間も座敷で向かい合っていると、私は自分の肺腑が、じわじわと真っ黒い泥で満たされていくような錯覚を覚えます。
「社会のために」「皆様のご迷惑にならぬよう」「未来ある子供たちのために」
大層な、まことに結構な御託でございます。けれども、その美しい言葉の裏側に、彼ら自身の生々しい血の匂いは、一体どこに隠されているというのでしょう。おのれの醜さに悶え、夜中に布団をかぶって男泣きに泣くような、あの憐れむべき人間の体温が、どこをどう探しても見当たらない。彼らの言葉をいくら引っくり返してみても、そこから出てくるのは、からからに乾いたおが屑と、誰かの使い古した道徳の死骸だけ。中身など、初めから無かったのです。彼らは、空っぽの、精巧なブリキの容れ物に過ぎない。
「社会のために」「皆様のご迷惑にならぬよう」「未来ある子供たちのために」
大層な、まことに結構な御託でございます。けれども、その美しい言葉の裏側に、彼ら自身の生々しい血の匂いは、一体どこに隠されているというのでしょう。おのれの醜さに悶え、夜中に布団をかぶって男泣きに泣くような、あの憐れむべき人間の体温が、どこをどう探しても見当たらない。彼らの言葉をいくら引っくり返してみても、そこから出てくるのは、からからに乾いたおが屑と、誰かの使い古した道徳の死骸だけ。中身など、初めから無かったのです。彼らは、空っぽの、精巧なブリキの容れ物に過ぎない。
それを、ああ、それなのに。世間という大怪物は、その空っぽの器をこそ「立派な紳士」「誠実な人間」などと呼び、拍手喝采を送り、お座敷の真ん中に祭り上げる。滑稽の極みでございます。私のように、おのれの罪深さに怯え、夜毎にお酒に逃げ、狂ったようにのたうち回っている生身の人間は、不届き者として路頭に迷わせ、あの、中身をくり抜かれた張子の人形どもが、のうのうと大手を振って大通りを歩いている。
けれど、私は見てしまった。見てしまったのです。
ある激しい雨の夕暮れ、その「上面だけの聖人」が、誰もいない薄暗い路地裏で、ふと仮面を外した瞬間の横顔を。
その眼の、なんと、おそろしく虚ろであったこと。それは、悲しいという感情さえ通り過ぎて、ただ、底の抜けた暗い井戸のようでした。彼は、おのれが空っぽであることに、とっくに気づいている。気づいていながら、もう引き返せないのです。一度でも建前を崩せば、自分がただの塵芥に還ってしまうことを知っているから、狂ったように、必死で「正しい人間」のぜんまいを巻き続けている。
ある激しい雨の夕暮れ、その「上面だけの聖人」が、誰もいない薄暗い路地裏で、ふと仮面を外した瞬間の横顔を。
その眼の、なんと、おそろしく虚ろであったこと。それは、悲しいという感情さえ通り過ぎて、ただ、底の抜けた暗い井戸のようでした。彼は、おのれが空っぽであることに、とっくに気づいている。気づいていながら、もう引き返せないのです。一度でも建前を崩せば、自分がただの塵芥に還ってしまうことを知っているから、狂ったように、必死で「正しい人間」のぜんまいを巻き続けている。
滑稽を通り越して、それは一幅の地獄絵図でございました。
あんなに上手に世間と踊り、あんなに綺麗に嘘を飾り立てながら、その実、彼はこの地上で最も孤独な、救いようのない亡者なのだ。おのれを愛することさえ忘れ、ただ世間の顔色という冷たい硝子の破片を喉元に突きつけられながら、一歩一歩、奈落へと行進している。
あんなに上手に世間と踊り、あんなに綺麗に嘘を飾り立てながら、その実、彼はこの地上で最も孤独な、救いようのない亡者なのだ。おのれを愛することさえ忘れ、ただ世間の顔色という冷たい硝子の破片を喉元に突きつけられながら、一歩一歩、奈落へと行進している。
「私は、間違ったことは、何一つ……」
そう呟く彼の声は、すでに掠れ、半分は墓場の中から響いているようでした。
ああ、いっそ、私と一緒にすべてをぶち壊して、その綺麗な硝子の城ごと、泥の海の底へ沈んでしまえばいい。中身のないお前たちの、その高尚な建前が、私の汚れた絶望の前に、無惨に粉々に砕け散る様を、私はこの眼で、とことん見届けてやりたいのでございます。
そう呟く彼の声は、すでに掠れ、半分は墓場の中から響いているようでした。
ああ、いっそ、私と一緒にすべてをぶち壊して、その綺麗な硝子の城ごと、泥の海の底へ沈んでしまえばいい。中身のないお前たちの、その高尚な建前が、私の汚れた絶望の前に、無惨に粉々に砕け散る様を、私はこの眼で、とことん見届けてやりたいのでございます。
























