橋の下の家(4)
- カテゴリ:自作小説
- 2026/06/04 07:54:09
それから十日程、私は床に臥していた。夜露に濡れて呑んでいたのが災いしたのだろう。身体中がぎしぎしと軋むように痛んだ。寝たり起きたりを繰り返しているうちに、私はこのまま、ある朝突然、二度と起き上がれなくなるのではないかと思った。
まるでこれまでの生活を取り上げられるように───
彼の言葉が、ふいに現実味を帯びて私の耳に戻ってきた。
≪───生きることは運命に見放されたということだ───これかと思えばそれ、それかと思えばあれの、嘘の連続と紙のように薄っぺらい現実───≫
そうだ……紙を裏返すように、いつも現実はこの手の先でくるりと翻る。だが、人はそれを……運命と呼んできたのではなかったか。
まるで質の悪い冗談だ……
≪この世の大抵のものは、ジョークで出来ているんだ≫
ああ、
私は叫び出しそうになって目を開けた。
幾度となく、そんなことを繰り返して、ようやく家の中を動けるようになった時に、また思ったものであった。
ああ、やはり、これも冗談だったのだと。
私は臥している間の、己の悲愴な様の滑稽さや自我の脆さに、これが彼の言う≪橋の下に捨てられた≫ということなのだと痛感した。痛感───全身の痛みとして感じた、生の実感でもあった。
そう、生とは、今にも深い川に落ちそうな危うい場所に立っているということであった。次々と翻る現実に目を眩ませられながら、漸う立ち、ああ大丈夫だったと胸を撫で下ろし、今見ているものこそが現実なのだと己に言い聞かせていると、次の風が吹いてくる。
これをジョークと言わずして何と言おう。
酒瓶は嫁がどこかにしまい込んでいた。どこにあるのかと尋ねたが、≪もう少し回復するまで控えた方が良い≫と言って教えてはくれなかった。
そうして一月程が経ち、私はようやく外出を許された。瓶を手に提げて歩きながら、あの橋の下を見下ろした。
そこには誰もいなかった。
当然だろう───彼とて、あんな場所で暮らしている筈はない。自殺を思いとどまった彼女も、もうあの場所へ足を運ぶ理由もない筈だ。私は葉先を黄色に移し始めた土手の草はらを見渡して、もうあの青い香りの酒を呑むこともないのだろうと思うと、それが残念だった。
赤鼻の親父は私の顔を見るなり、≪くたばったかと思ってた≫と言って、折れた前歯を見せて笑った。≪まだ迎えは来ないようだよ≫≪あんたに逝かれちゃ、客が一人減っちまうがね≫折れた歯の隙間からシシシと笑いを洩らし、親父は≪嫁さんにゃ内緒にしときな≫と、酒を少し多めに瓶に注いだ。
昇り始めた月を道の向こうに見ながら戻る。橋まで来ると、私は土手を下りた。誰も居なくてもいい。これが最後かもしれぬ。私は瓶を傍らに置くと、乾いた草を摘み取って、彼の手つきを思い出しながら、盃の形にくるりと丸めてみた。
元の形に戻ろうとする葉を手で押さえて酒を注いだ。底に出来た隙間から、酒の滴がぽたぽたと落ちた。私は慌てて口を盃の方へと寄せて、ずず、と啜った。手を濡らした滴を舐めていると、カサ、カサ、と乾いた足音が近づいて来て、私は顔を上げた。
…やあ。どうも上手くいかんよ
彼は戸惑ったように見開いた目を私に向けていたが、それを聞いて目を伏せ、……笑った。
コツがあるんですよ
彼は私の向かいに座り、器用にあの盃を作って寄越した。
もう、具合はいいんですか
ああ。…知っていたのか?私が臥せていたこと
年寄りが姿を見せなくなったら、臥せてるか死んだかのどちらかしかない
そう言って彼はフッと笑った。
彼の言うことは、実に明解だった。
私は既にこの異国の青年が気に入っていた。彼は我々が運命と名付けることで理解していたものを、たった一言で言い表したのだった。
草陰の虫達が鳴いていた。夏の終わり頃の生命力のある鳴き声ではなく、静かに、川風に乗せて去り行く季節を送るような、そんな音色だった。私は体の冷えないうちに、家へ戻ることにした。乾いた葉の盃で呑んだ酒は、たった一口ではあったが、また違った味がした。私は、また来ると言った。彼はただ、そうですかと答えた。
(続く)


























