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忘却の薄暮

あさましい、とはこのことか。
かつては、私の背をあたたかく包んでくれたその手で、
母は、自分の便(べん)を弄(まさぐ)り、
お気に入りの牡丹(ぼたん)の茶碗を、
庭の石へ投げつけて割った。
ああ、なんと、滑稽で、悲しい、絵画のような光景。
「あなた、だれ?」
一日三度、私は、知らない男に生まれ変わる。
母の青い瞳は、どこか遠くの、
誰もいない海を見つめていた。
それは、私などよりずっと、美しい景色だったのだろう。
恥じ入るべきは、私だ。
母を「困った老人」として扱い、
心のどこかで、死を待っていた。
母の脳が、砂時計のようにさらさらと、
私との記憶を零(こぼ)し落としていくのを、
私は、悲しむふりをして、
冷ややかに観察していたのだ。
ああ、それでも、夕暮れ時。
母がふと、正気に戻ったような顔をして、
「お父さん、もう帰らなきゃ」
と呟くとき。
私は、太宰のように、
その白髪(しらげ)の頭を抱きしめたかった。
本当は、生きていて欲しかった。
ボロボロの、記憶の亡者になっても。
母が死んだ。
あの、割れた牡丹の茶碗は、まだ庭にある。
私は、もう誰のことも愛せない気がする。
いや、違う。
私は、誰からも、もう愛されたくないのだ。
この、恥ずかしい、哀しい記憶だけを、
道連れにして。

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