3.11
- カテゴリ:日記
- 2026/03/11 15:35:04
その時は、いわきの不動産屋にいた。
数時間前までは海辺のあたりをドライブしながら職探しをしていた。
物件の説明を受けている時に揺れ始め、机の上の電話やパソコンが叩きつけられるように床に飛ばされていき、自身は建物自体が壊れるのではと思いながら地べたに這いつくばり、揺れがおさまり始めたタイミングで外に出た。
車に戻って慌ててラジオを付ると、津波警報が流れていて、海沿いに戻ることは無理だと思い、家に帰ることにした。
ラジオでは、津波、原発と耳を疑うようなニュースが繰り返し流れていた。
主要道路の橋が落ちていたりしたので、回り道をする必要があったのだが、慌てて運転をしていた人が側溝にタイヤを落としたりして、そこしか通れないのに道の半分が使えなくなり、狭い道で向かい合った車が、戻ることも進むこともできずに、どうにもならくなっていた。
車から降りて、ぎりぎりに通れる幅を作るために、誘導作業をして、ようやく切り抜け、壊れた道を避けながら家に向かった。
途中、コンビニが何軒かあったが、どこも電気が消えており、水も止まっていて、トレイも使えない状態だった。
道すがらの瓦屋根の家は、ほとんどの瓦が落ちてしまい、雨が降ったら家中水浸しになってしまうような状態だった。
私の家は、瓦は落ちて砕け、二重サッシはところどこズレたり外れたり。
家の中に入ると、壁は崩れ、アップライトピアノは部屋の中央まで歩き出していた。
水は出ない。電気も使えない。日中なら太陽光発電があるのでどうにかなる。冷蔵庫は使える状態ではなかった。
幸いなことに、落ちてきた瓦は、棟部分のものだけだったので、屋根に上がってみるまでは実際はどうか分からなかったけど、すぐに雨漏りがするような状態にはなっていないようだった。
家は、サッシを戻したり、壊れたものを片付けたりした。他にもやらなければいけないことは色々あったが、やれることはほとんどなかった。
繰り返される津波の映像と、原発の報道、とんでもないことが起こってしまったと、頭の中でいろんな思いが巡った。
日が明けてから、本屋根にあがり、棟だけが壊れていることを確認したので、ブルーシートで覆うだけで、とりあえずは、大丈夫だろうと思い、近くのホームセンターに行く。
ホームセンターは、電気が消えていたが、店は開けてあった。
レジが動かなかったため、従業員は手書きで金銭の受け渡しに対応していた。
後になって、この対応は多くの人の救いになったということだった。
シートの必要なサイズの物は買えた。それと、棟部分の応急処置として、防水ラバーの塗料も買えたので、家に戻ってすぐに作業を終わらせた。
やったことのない作業だったので、風で飛ばされないように紐で縛る作業がかなり難しかった。
(ブルーシートは、ほとんど売れてしまい残っているものは銀色の丈夫なものしかなかったが、その後、瓦屋根の修理業者が、何ヶ月も対応できないという事態になり、それしか残っていなくて良かったな思った)
その後は、娘を放射能から避難させること。
問題は、ガソリンが買えない。
埼玉の奥さんの実家まで娘を連れていきたかったが、電車は動いていないし、ガソリンも買えないとなるとどうするか。
そして思いついたのが、父が仲良くしていた実家近くにあるガソリンスタンドだったら、頼めばどうにかしてくれるだろうという考え。
水もなかったので、実家まで水をもらいにいくついでに頼んでみようと。
スタンドでは、役場から指示があって、一般の人には売らないようにと言われているということだったが、20リットルだけならということで、入れてもらった。
どこまで行けるかわからないが、半分以上はガソリンが入ったので、どうにか埼玉に向かってみることにした。
ガソリンを減らさないために、赤信号ではエンジンを止め、下り坂ではニュートラルで進んだ。
白河を通過し、那須の少し手前まで来たら、ガソリンを積んだタンクローリがスタンドに入っていくのが見えた。
こんな幸運があるのだろうかと空に向かって手を合わせた。
タンクローリーの作業が終了するのを待ち、ガソリンを入れてもらった。
ここでも、20リットルまでしか入れられないと言われたが、プラスで200キロも走れれば埼玉までは十分に辿り着ける量だった。
帰りのことは覚えていないが、たぶん埼玉県で、満タンに入れてもらって帰ってきたのだと思う。
ただ、ガソリンスタンドによっては、福島ナンバーの車は、放射能汚染の危険があるので、拒否されることがあるからと言われたことを覚えている。
この日が来ると、こんな穏やかな時間を過ごせていることは、奇跡の積み重ねなんだとつくづく思う。























