日本のマスコミは伝えなかったけど天安門事件は
- カテゴリ:日記
- 2026/02/19 23:32:05
日本のマスコミは伝えなかったけど天安門事件は色々な事が海外では報道されていた。
勿論天安門広場での其の夜の事は悲惨で大虐殺だけど其の後も酷かった。
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六四天安門事件(ろくしてんあんもんじけん)は、1989年6月4日に中国・北京市の天安門広場を占拠していた民主化を求めるデモ隊に対し、中国人民解放軍が実力行使し、多数の死傷者を出した事件である。通常、単に「天安門事件」と呼称する場合はこの事件を指すが[1]、1976年に起きた四五天安門事件と区別するため「第二次天安門事件」と呼ばれることもある。
当時の中国周辺では、2年前の1987年に台湾で民主化への前進となる戒厳令解除が実施され、韓国でも光州事件から始まった民主化闘争の末の民主化宣言が立て続けに起こるなど、東アジアの広範囲に民主化の波が押し寄せていた。
その波が遅れて到達した中国国内でも若者の民主化運動が高まりを見せるなかで、改革派だった胡耀邦元党総書記の死が民主化を求めるデモが発生するきっかけとなった[2]。胡耀邦の葬儀までに、政治改革を求める学生を中心に約10万人の人々が天安門広場に集まった[3]。
抗議運動自体は、胡耀邦が死去した1989年4月15日から自然発生的に始まった。抗議の参加者たちは統制がなされておらず、指導者もいなかったが、中には中国共産党の党員、トロツキスト、左派の毛沢東主義者、通常は政府の構造内部の権威主義と経済の変革を要求する声[4] に反対していた改革派の自由主義者も含まれていた。また、デモへの支援は外国の西側諸国からも行われ、米中央情報局(CIA)は、学生活動家たちの間に情報提供者のネットワークを構築し、反政府運動の形成に積極的な協力を見せ、タイプライターやファックスなどさまざまな機材を提供したとされる[5]。のちに、CIAは英MI6とともに何人かの反体制派指導者の密出国に関与することになる[6]。
デモは最初は天安門広場とその周辺に集中していたが、のちに上海市を含めた国中の都市に波及していった。鄧小平中軍委主席の決定により5月19日に北京市に戒厳令が布告され、武力介入の可能性が高まったため、趙紫陽総書記や知識人たちは学生たちに対してデモの平和的解散を促したが、学生たちの投票では強硬派が多数を占め、デモ継続を強行したため首都機能は麻痺に陥った。1989年6月4日未明、中国人民解放軍は兵士と戦車で北京の通りに移動して、デモ隊の鎮圧を開始した。
衝突のあと、中国共産党当局は広範囲にわたって抗議者とその支持者の逮捕を実行し、外国の報道機関を国から締め出し、自国の報道機関に対しては事件の報道を厳格に統制させた。戒厳令布告に反対した趙紫陽は、総書記ほか全役職を解任され、2005年に死去するまで、自宅軟禁下に置かれた。
=======ウィキより
↑日本のマスコミは報道しなかったが海外のマスコミでは有名な戦車で人をぺちゃんこにする映像も報道されたし、更に隠れていた学生達を見つけて機関銃で大量虐殺をして重なる死体と大量の血しぶきの写真も海外では報道されて其の様な事が何年も続けて恐怖政治を植え付けた。
だから其れを知っている年代の中国人は其れを記憶しているはずである。
天安門広場の大量の遺体はショベルカーで持ち上げられてトラックに積み重ねられてどこかに運ばれた。数万体と言われている。
今の日本に来て居る中国人は其の事を知っているのか其れについてきちんと中国の歴史を教えてあげるべきだと思う。
中国も1時期民主化を願う大勢の人達が行動を起こした時があった事を知らせるべきだと思っている。

























