Nicotto Town



玻璃の回廊

ガス燈が 濡れた石畳を淡く染め
港を臨む 坂の上の洋館
重い真鍮のドアノブを回せば
そこは 刻が止まった 琥珀の聖域
蓄音機から流れるのは 擦り切れた異国の調べ
和服の上に 漆黒のインバネスを纏い
男は 影の落ちたサンルームに 独り立つ
指先に残る 封蝋の香りは 誰かの遺言か
蔦の絡まる 赤煉瓦の壁の向こう
長崎の海は 鉛色の眠りについていた
武器など持たずとも
その眼差しが すべての欺瞞を 射抜いている
古びた書斎の 螺鈿の机に
一葉の写真と 飲みかけの冷めた珈琲
守るべきものは 鋼の掟ではなく
胸の奥に 固く閉ざした 遠い日の約束
夜が明けるまで 彼は 闇の一部となる
硝子窓を叩く 雨の雫を数えながら
日本という名の 異邦の地で
サムライの魂を 独り、都会の孤独に 浸している

霧が 浦上の谷から這い上がり
大浦天主堂の鐘の音が 湿った夜を震わせる
坂の途中の洋館、その三階の窓だけが
鈍い金色の光を 吐き出していた
男は 窓辺の木製椅子に腰を下ろし
丸い眼鏡越しに 港の灯りを 眺めている
その手にあるのは 鉄の火器ではなく
使い込まれた 象牙のチェス駒ひとつ
オランダ坂を 駆け上がる風が
古い鎧戸 を 密やかに叩く
かつて誰かが ここで愛を誓い
そして 誰かが 誰かを静かに裏切った
和の沈黙と 洋の孤独が
マントの翻る 闇の中で溶け合う
男は ただ 独りの時間を 丁寧に味わう
歴史という名の 巨大な歯車に 押し潰されぬよう
祈りの声は 潮騒に消え
長崎の夜は 深い藍色の 繭となる
彼は 立ち上がることもなく
ただ 夜が静かに 幕を引くのを 待っていた

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