水滴の国 2
- カテゴリ:自作小説
- 2025/07/25 10:33:32
一緒に居るだけで他に何もない二人だった。
およそ暮らしてゆけるとも思えないほど何もないきみの部屋の窓辺で、一応吊るされていたカーテンを弄んでいると、きみは向こうの壁に凭れて座り、脚を投げ出して黙り込む。テーブルがないのでカップも床に置く。ハンガーもないので着る物はすべて押入に放り込んである。
「動物みたいね」
「うん」
口をきくのも面倒なようだった。
約束もしない。互いになんとなく部屋を訪ね、寄り添って床に座り、足の爪が曲がっているとか、歯磨粉が辛いとか話しているだけ。額をつけてテレパシーごっこをしたり、それから唇を重ねて床に転がっても、ただそれだけのことだった。言葉もなく、ただ熱を奪い合い、疲れる頃には夜気に冷やされてゆく。きみと私は同じ夢を見た。このまま放熱を続け、冷たくなりたいと。
きみは天井を見上げたまま言った。
「漫画で読んだと思うんだけど、洗面器に水を張って、顔つけて自殺しようとするのがあった。結局苦しくてぷはーって顔上げちゃうんだけど」
私たちはひとしきり笑った後、目を合わせた。
「やってみようか」
なんだかおもしろそうだった。きみは起き上がり、白い背中が暗い部屋で光った。
「あ、洗面器がない」
また笑った。
おもしろいというのは正確ではない。些細な滑稽さ、どうでもよいくだらなさ、みっともない私たち。ただし誰かが目をとめるようなことがあれば。自嘲の笑い。
誰も気にとめない。誰も見ない。だから私たちはここには居ない。二人で居れば、思いきり不精でいられた。私たちは時間の許す限り、部屋でじっとうずくまっていた。
「考える人」
ポーズをつける私。きみも丸めていた背を伸ばす。
「信楽焼」
「何、それ、狸の?」
「そう」
「ばか」
「九谷焼の徳利」
「伊万里の皿」
「使い捨ての紙皿だろう」
「使用済みティッシュのくせに」
床に転がって膝を抱えて丸くなる。肩をすくめて、より小さくなろうとする。首が痛い。きみは仰向いて大の字になった。
「死体」
「何?」
返事がない。起きあがって呼び続けると、きみは「死人に口なし」と言った。そうか、それがいちばん楽なんだ、と私も真似をした。「まばたきするなよ」きみが言った。私は死体なので答えなかった。
まばたきを堪えてじっと天井を見ていると、少しずつ涙が滲んでくる。私たちは無力だ。こうしているとそれがよくわかる。学校で、街角で、誰かの隣で、それが今と何が違うというのだろう。
ジリリリリリリリリリリリリ
反射的に起きあがった。きみは部屋の隅に落ちていた目覚まし時計をつかむと壁に叩きつけた。時計から電池が転がり、時も死んだ。きみもまばたきをしないでいたのだろう、赤い目をこちらに向けた。音がない。水の中にいるようだ。
「おまえが嫌いだよ」
「知ってる」
なぜなら私たちは同じ寂しさから生まれた双生児だから。互いの重さに堪えかねて力尽きる日が来ることもはじめから知っていた。それでも、この温い世界はとても心地良くて、ずっと居られるような気がしていたのだ。
一滴の水の中から私たちは浮上する。
その時まで、こんなふうに6月の毎日を、私は自分の、あるいはきみの部屋で過ごしていた。その後、きみの部屋を訪ねることはなかったし、きみも私の部屋に現れなかった。学校で挨拶を交わすことはあっても、もう笑顔は要らなかった。
6月は重い枷、でもそれは糧でもあるから、外すことはできなかった。
本屋を出ると、傘立てに私の傘はなかった。突然の雨だったから、誰かが失敬していったのだろう。
私は何も持たずに歩いていた。
あの時に手放してしまったから、もう私の手には何も残されていない。ただ重みに堪えた跡が微かに見えるだけだ。
私の体は徐々に雨に侵されてゆく。どこかから雨漏りがしているのだろうか。どこまでも冷やされてゆく。
額から頬から滴が流れ落ち、唇をなぞる。それを舐めて飲み下す。
「もう少し」
ふいに呟く。もう少し、何が?
もう少しで部屋に着く。もう少しここに居たい。
「何だろう」
もう少しで終わる。もう少しで梅雨が明ける。もう少しここに居たい。もう少しで諦めよう。
もう少しここに居よう。もう少しだけ考えよう。もう少し許してみよう。もう少しで終わりにしよう。
「もう少し」
公園の時計は直されている。もう何か月になるだろう。時計の明かりの中を雨が落ちてゆく。我知らず掌を見る。両の掌から雨水は滴って地に還ってゆく。
もう少し。
力があったなら。
私はもと来た道を引き返す。早足になり、駆け出して駅まで。踏切を渡る。
誰にとっても私たちは居なかった。けれど触れた手は熱かった。きみは確かにそこに居た。
私は、それが重いので、抱きしめるしかないと思った。満身の力で。それが小さく軽ければ、笑った拍子にどこかへ飛んでいってしまったろう。それはとても重かったので、いつまでも足元に落ちていた。私はそれを拾うことに決めた。もう終わった。もう判った。
重いそれを、抱くほかに私は何も知らない。手首に痣。痛みを堪えて、水の中に飛び込んでゆく。
雨を吸った私がきみにも重いことを祈る。
1993年筆/2017年修正加筆