江戸川乱歩 一人二役
- カテゴリ:日記
- 2025/06/12 00:14:01
江戸川乱歩の一人二役という小説があるらしい。それを読んで「うわ、これ、ローランドってこういう人の思想と近いのかもしれないな」と思った。
俺か、俺以外か
俺か、俺以外かっていうのはちょっと面白いニュアンスもあるキャッチーな名言だと思っていた。ちょっとした言葉遊びのように響いていた。でも、江戸川乱歩の小説なんかを渉猟していると、「もしかしてローランドって歴史深い思想を持ってる男だったのか」と思うようになった。江戸川乱歩の一人二役という小説、俺さんが変装して俺以外になる、というもの。俺が俺以外になるが俺以外の男は俺なのだ。俺は俺以外の男になって妻に他人と思われるが、それはまさしく俺なのだ。妻が横恋慕している男は俺なのだ。俺は俺自身に、嫉妬する~~~~っていう、なんだか登場人物が「俺か俺以外か」みたいな世界観でありつつ、「俺」っていう自我が全面にふんだんにナルシズムがギラギラ丁寧に鮮明に描かれていて、そしてそのナルシズムが最終的に自分自身に嫉妬するという何とも皮肉な、だが核心に迫っていて興味深く単純であるがどこか面白い、ローランドの「俺か俺以外か」の発言が漂わせる世界観にとても似ているな、と思ったのが、江戸川乱歩の一人二役だった。ローランドというキャラクターの圧倒的な自信、ナルシズムは傍目からみるとおかしながらも、とても勇ましく、自信がかっこいい。そんな男の人の思想って、実は江戸川乱歩の時代から存在していたのかもしれないな、って、乱歩の小説を拝読し、男性心理の勉強になるな~って思いました。俺が究極に嫉妬するのは、俺であるという、そのなんとも複雑なナルシズムの極地の究極の矛盾みたいなもの、他人からみて理解しがたいその心理構造というものが、明快に小説という形で描かれていて、なんだかこういう男の人、「俺か俺以外か」という思想って、案外多いのかもしれないな、っていう可能性を、江戸川乱歩の小説で思った。
藤子F藤夫「俺と俺と俺」
映画パイレーツオブカリビアンっていう映画のキャプテンジャック船長が不調の落ち目に、大勢の「自分自身」と対話したり、一緒に仕事したり喧嘩したりする、っていう、俺と俺と俺な状況っていうのが物語で描かれる。それと似たような話が、藤子先生の作品にもあるらしい。ドッペルゲンガーにあうと死ぬっていうけれど、ドッペルゲンガー的な存在があらわれる境遇を描いた作品というのは、案外多いのかもしれないなと、有名作家さんの作品からうかがい知れる。ジャックはドッペルゲンガーに出会っても死なない。
点が三つあると顔だと思う人間
人間は、そこに三つ点があったら、目と口だと勝手に脳が認識し、それを人の顔だと記号化し理解し、顔だと認識する生き物らしい。そういう現象に名前もあるらしい。忘れたけど。そういう生き物が人間だから、人間はおおまかに「自分と同族」と判断するという事ができるとても賢い生き物らしい。自分と(同じ)性別の人間を、同じ性別と認識し、(同じ)言語を話せば、同じ日本人と認識する。人間は、自分と同じ共通点を見つけ、自分と同じだと認識する事ができる。それが出来ないと、人間は毎日毎日パソコンみたいにいつものように「暗証番号を」って決まりきった事をやる非効率な機械になるかもしれない。人間だけが同じであるという認識を持てて、そういう顔認証とか〇〇認証とかいらずに効率的に物ごとを判断できる。それが「俺と俺と俺」とか、「俺か俺以外か」という価値観に通じるものなんだろうな、というのが、なんだか凄く理解できてしまった、江戸川乱歩の「一人二役」だった。
ちょっと違う二人羽織
一人二役が男性心理なら、時々宴会芸である二人羽織っていうの。あれは俺俺俺の世界観と真逆ですね。他人だから、ちぐはぐになる。他人同士が一心同体になって一人を演じる。だからちぐはぐでぐだぐだになる。なんだかそれがコミカルで面白い。結果どうなるのか、誰にもわからない。時々まれに、器用な人がいて、うまいこと二人羽織で飯食っちゃう人もいて褒められたりして。一人二役、二人羽織、同じようで全く違う。