さよならウクバール(嘘日記)
- カテゴリ:日記
- 2025/06/06 19:01:25
人生を無駄にしない人なんているのか私にはわかりません。
少なくとも私は世の中のほとんどのことがわからないままでした。
ひょっとしたら小学生のほうが知っていることが多いかもしれない。
私には食事をおいしいという気持ちも友達と別れて悲しいという気持ちも、スポーツが面白いという気持ちも政治腐敗が憎いという気持ちも最後までよくわかりませんでした。
わかろうと努力はしてきたんですけど、私の気のせいでなければ、努力はかえって私をそういう心からの理解から遠ざけてきたようです。
私が好きだったのはものすごくたくさんの本を読むこと。私が一人じゃないと思えるのはいつだって家族といるときでもクラスメイトといるときでも同僚でいるときでもなく、本を開くときでした。彼らが彼らの頭で考えてみて彼らのさらされる地獄を解釈し翻訳し、添い、対立し折り合うなかで見ているのはその渦中の自分の傷つきでなくその構造の不思議さであるというそういう人間的な誠実さだけが私を励ましました。彼らは拒むでしょうが私にとって彼らはいつだって戦友でした。そしてありがたいことに彼らは図書館のそこかしこに眠っていて、どんなに私が貧困だろうと訪ねていけばその思考をいつも来訪者の私に広げて見せてくれるのでした。わたしはその時だけ自分が自由であることに気づくのでした。
話を戻します。でも、わたしはあと一年しか存在できないというのだから、彼らをもっと探しに行けばってとても後悔しました。いや、後悔は違いますね。私たちのこの世の中は大概の人は自分の体力と時間を日銭を稼ぐために費やさなければ明日を繋げないし、後悔しようにも選択の余地なんてないのでね。そりゃ極論を言えば最低限の日銭を稼いで最低限の家に住み、明日の保証もなく生きるのならもう少し時間は稼げたでしょうが、そうするほどラディカルではなかったし、私の不安性な性格上、その選択肢が妥当だったとも思えないのでね。
残された時間を本を読もうなんて言ったら寂しいやつだと笑われるのでしょうが、私にすれば遠い昔にはぐれた戦友を探し出すための旅みたいなものだから、それなりに価値のあることなのです。
ところが惜しむらくは私には語学力がなくて、どうもこれは私の戦友らしいぞという文献に、翻訳されていないものも結構あるんですね。私にできるのは英語だけですから、チェコやポーランドの1960年代の哲学者だのの文献は翻訳がなければ読めないんです。仕方ないから私は論文を読みあさり、彼らの生い立ちや書いたらしいほんのあらすじやら何やらの周辺状況を片端から調べて、そして彼らのつもりになって本を書いていきました。変ですか?残りの人生が少ないのに他人のつもりになって本を書くなんて時間の無駄でしょうか。でもはっきり言いますけど、私の知る限り大半の人は自分の身になって本を書こうとしてもそこまで緻密で壮大な風景は描けないのですよ、むしろ、他人の靴を履くという仮定条件は考えるのにだいぶ役に立ちます。それで人はかなり遠くまで行けるのです。
私が使える体の機能は日に日に少なくなっていきます。四肢の動き、目、耳。五感。使える機能が減れば減るほど、時間というものがあいまいになります。もっと言えば引き延ばされます。私は今、変な話だけれども1と2の間にある無限とすべての数を列した無限の密度は同じということが理解できるきがします。実際今現在の私は無限の時間の中にいて、過去の記憶を頼りにたくさんの本を書くことに費やしています。読まれることはないけれど、それが何だと言うんでしょう。私はたぶん初めて自由になりました。この先の死がどんなものかはもちろん知りませんが、きっと死というのもひょっとしたら誰にも読まれない本のようなものなのかもしれないと思うと、それは私にとっての天国であるという気がしました。誰かにとっての地獄かもしれないけど。
無限の時間が私にはあるから、シャッポを取ってお辞儀をするくらいの時間はなんてことありません。皆さん、さようなら。