たとえ話
- カテゴリ:日記
- 2025/06/05 00:05:55
うちの近所に自決猫と呼ばれている猫が長いこといたんです。
言葉のまんまでその猫は、気が付くと、物を食べるのをやめてしまったり、車の前に飛び出てしまったりするんですね。実際、そういう行動をとる動物もいるらしいですけど、猫でそういうのは珍しいので。ついでになんかいつも住んでのところで助かってしまうので、いつもいつも「すんで」をみんなに見られていたんです。
なんだか引き付けられるような佇まいのその猫を、ある人は家に招いて家猫にしようと試みたり、餌をやりに来る小学生がいたり、はた目からすると、割に恵まれているようにも見えました。でも、ひょっとしたらそういう目に合う前にずっと前に、ずっとずっともう手遅れだったかもしれません。
でも、その猫と私には不思議な関係性がありました。
私は、その猫が何となく気になり、気に入ってもいました。心配でしたし、漠然とシンパシーを感じていました。何がっていうと難しいけれどもその猫の妙に思慮部下そうなまなざしを気に入っていたし。
通りすがって、その猫がぼんやりしているのをぼんやり眺めて、「だいじょうぶ?」と話しかけることもありました。というか「大丈夫?」ばかり言っていたと思います。見かけると。なんだか「大丈夫?」と言いたくなる猫だったんです。猫にしてはやたら律儀で、人が食べ物を側に置くと、恐縮したように首をすくませ見えないようにふるまい口を全くつけないようなその猫はやはり猫らしくありませんでした。もちろん猫は人の見ていないところで食べるようなところがある生き物だけれどもそれとはスタンスが違うように見えたし何より、人が見ていなかろうといつまでも人が差し出したものには手を付けないのです。
その猫は、最後に私に挨拶に来ました。もちろん私の幻想かもしれないけれど夢に一度出てきてもう二度とこの世で会うことはなかったので、私は本当にあいさつに来たのだろうと思っていました。その猫は夢の中ではおじさんの姿をしていました。どう見ても小太りのくたびれた中年サラリーマンのいでたちでしたが、私はなんだか「あの猫だ」と分かってしまいました。夢なんてそんなものだし。
「どうも」猫がシャッポを脱ぐので、「どうも」と返します(ほかに言うことありますか?」)
「最後に挨拶をしたいと思ってきました」「最後?」猫は答えません。
時間がないのでしょうか。普段と比べて、あまり間を置かず勝手にしゃべりたいことだけをしゃべりきりたいようでした。
「私はね。あなたと会ってとても感謝していてそれを伝えたかったのです。こんなこと言われたって気持ち悪いでしょう。でも、私はびっくりしたんです。私みたいなものでも救われることがあるんだって。あなたが視界にいて『大丈夫?』と言ってくれればそれだけで安心でした。…気持ち悪いですね。わかっています。でも最後なんで聞いてもらえたら。こう、わがままだと思って。別に化けて出たりしませんから。
なんでしょうね。あなたとあって、こんな風に扱われたかったんだとわかったんですよね。あなたが私に大した関心も寄せてなかったのは知っています。記憶にすらあんまりないだろうなって。でも、あなたは単に親切な他人として、その瞬間だけは私の心配をしてくれたでしょう。私はなんだかそれがとてもうれしくて、初めて人生で救われちゃったんですよね。変ですね。私には熱心に食べ物をくれようと、家に招こうと、私を愛玩しようとする人だっていたのに、それらの人には漠然とした嫌悪と恐怖と違和感しかなかったのに、あなたに「大丈夫?」と言われるのはとても好きでした。なんででしょうね。どうしてかわからないけど」
気持ち悪くなんかないけど、と言ってあげたくなりました。なんというか私はあなたが何か踏み越えて同じ執着を相手に求めたりしないってもうその佇まいからして知ってますよって。そんで、確かに私はあなたにそんなにたくさんの時間を与えたり差し向けたりはしなかったけどそのなんとなくすべてからして邪魔な私はひっそりとおりますね、みたいなあなたのその佇まいは実際のところ結構惹かれていたのだと。でもそういうことを言うのがいいのかわかりませんでした。やっぱりたたられたりなんだりしてもあれだし。そもそもゆめのためか、私はしゃべるという行為を思いつけず、馬鹿みたいにそれを聞いていてなんだか胸のあたりに変な感覚がジワリとしたりなんだりするような極めて言語化しづらい何かを感じその感覚を負うしかできませんでした。
「すみませんね。気持ち悪いですよね。お礼が言いたくて。私がこの現世でお礼が言いたいものってほかに思いつかなくてね」
※
私はわからないんですよね。あの時に私は何か言ってあげるべきだったのか。言わないことは残酷だったのか。でも猫は満足げに消えたようにも見えたし。
でもね、その猫は多分私そのものと何かを結びたかったんじゃないと思うんです。むしろ最後まで我々が他人だったことに何か猫の感謝のカギがある気すらします。
※
夢の中で私というおっさんと猫というおっさんの二人が会話した後、その猫はもう見えなくなりました。私はただただその猫がよくいた場所―とあるきれいな公園のあずまやにたたずみ、真ん前の池に対して飛び降りるかのような動作をするのがその猫のいつもの習慣でしたー
そのあずまやに勝手に花を供えたり眺めたりしていました。
私はもういないものしか愛せないことがあります。だから私は何となく、その猫の気持ちがわかる気もするのです。