Nicotto Town



作文、ボブマーリー、イーグルス

「自由について」


きっとこんな題で話すなんて、なんて変わり者何だろうって言われるのは知っているけれども、
昔の歌を聞いていたら、無性に「自由」について書かれたものが読みたくなりました。もちろん、何度も言うけれども、2070年にもなって、「自由」について書くなんてまあ奇特な人だといわれるのはわかります。
つまり、自由っていうのは抑圧や弾圧、隷属のアンチテーゼであって、現代のように寒いことも暑いこともなくAIがすべての室温やら衣服の温度を調整をしてくれ、必要な情報を口にすれば希望の温度感の情報が得られ娯楽が得られ、少なくとも食うに困らぬ大提言の衣食住が政府によって担保され、夢なんてものはVR空間で思うさま達成すればいいこの世界において―もちろんすべての国ってわけではないけれど―自由なんて言葉はもう旧世界の遺物と化しています。
でも、これは案外凡庸な印象かもしれないけれども、労働やら強制やら不足にあえいでいた彼らのほうが、今やAIが大体できる多くの職を不完全かつ不本意ながら社畜と自嘲しながらこなしていた彼らのほうがよほど自由という言葉に近い感じがしますよね。
というのも肉体が繋がれていようと彼らの精神は自由に反抗し、考えていたわけだから。自由ってある意味では不足や欠如や不完全さの中にしか存在しないんですよね。なんだか当たり前の言葉を言っているようですけど。

この時代の自由について書いてあるものを思わず読み漁ってしまいました。
自由はもっとも尊い物 とか 自由自由というけれども、あなたは隷属しているよとうたう歌詞だとか、精神の自由だけは誰にも奪えないとか
今や自由も隷属もなく均質と広々としたコモンセンスの平原に生きる私はなんだかそういうことをとても切なく美しく思うのでした。

彼らに教えてあげたい。もう、私たちの自由―差異と言い換えてもいいけど―そんなものは割とすぐになくなってしまうし、未来にあるのはせいぜい味覚の差異や身体の差異だけなのだって。それだっていつまであるのかわからないけれど。
彼らは私たちのような完成形を求めていたのでしょうか。それとも行きがかり上、なのかな。それから彼らは自分たちと比較して私たちのほうが幸せと思うんでしょうか(まあ、それは大体の人がそう思っているんだろう)。
私はなんだか物語の登場人物そのもののような彼らが、とてもとてもいとおしく尊く思える。




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