Nicotto Town



左回りのリトル(4)

 二つめの駅で、空は「お疲れさまでした」と言った。僕も「お疲れ。また明日」と返し、動き出す車窓の向こうの彼女が階段に消えるのを確認してから、鞄を開けた。
 見なくていい、と言ったきり無言のままだった。僕は展覧会のパンフを開いた。
 1ページ目。標本箱に並ぶデスマスク。
 2ページ目。鳥の巣に眠る子供。
 3ページ目。キューブに封じられた都市。
 暗い色彩の絵が続く。
 9ページ目の青白い絵が目をひいた。
 水面に浮かぶ裸婦を上から見た絵だった。
 空を映した水面に、翼を広げたような長い髪の裸婦と枯葉が浮かんでいる。目を閉じて青白い肌をした裸婦が、死体のようだと思った。
 何気なくその絵の下の文字を読む。

  空木秀二 『水からの飛翔』 2018年

 空木?
 僕は最後のページを開いた。出展者一覧はなかった。




 翌日、バイトが始まる四時まで待てずに、僕は昼休みに店に顔を出した。空の昼休みに合わせたのだが、遅番の丸山さんが出てきたところで空は僕と一足違いに休憩に出たという。店長が「野宮、飯まだか」と訊いた。はいと答えると「早いけど俺も1番出るわ。一緒に行こう」と誘われた。
 八階のそば屋へ行く。店長のおごりで天ぷらそばになる。久しぶりのリッチな昼食。空は地下の休憩室に行ったようだ、と店長が言う。空の話題が出たところで僕は「空木秀二ってご存知ですか」と尋ねた。
「野宮も気がついたか?まあ、山崎も空木秀二の後輩だからな」
「後輩?T美大の?」
「そう。山崎の専攻は日本画だけどな。あいつが描いたら日本画もエキセントリックだろうな」
と言ってひとしきり笑う。天ぷらそばが二つ運ばれてきた。店長は割り箸をパチンと割って先をこすり合わせる。
「空ちゃんは販売希望で面接に来たらしいんだけど、専務が、」専務、のところで顔をしかめて、ずるずるっとそばをかき込んだ。「空木の娘だって知って抱え込もうと考えたんだろ。空木秀二っていやそこそこ知れた画家だし、空ちゃんも高校生の時に父親と二人展やって、当時は話題になったんだ。知らないだろう」
「知りませんでした」
「うちにはまだ入ってきてないけどさ、新宿店や渋谷店じゃ、絵も扱ってんだ。新鋭画家の小品ってさ。主に印刷だけど、原画もあるから、空ちゃんが描けば話題にもなる、社員の絵なら独占できる」
「……」
「セコイよなあ」僕が言わなくても店長が言った。
「だいたい、父親が自殺したかもしれないってのに、親父がどうこう言って描かせるの可哀想じゃねえか」
「自殺」
「あ、」と店長は口が滑ったという顔をしたが「まあ、山崎情報だしいいか。空木秀二の死は騒がれなかったけど、少なくとも画壇には衝撃だったからな。車ごと転落死したんだ。事故って事で片づいてるけど不審なところが多くて、空木の周囲じゃ自殺説の方が有力なんだ」
「……」
「本社は空ちゃんの出勤は週四日までに抑えて描く時間を作るように、って言うんだけどさ。空ちゃんは断ってるんだよ。それを描かせるなんて強引だよな。俺は断固反対だ。…野宮、そばのびるぞ」
「あ、はい」
 それで、と僕は思った。双月堂の社員の雇用基準は高卒以上だ。空が高校中退だと言った時にひっかかった何かはこれだったのだ。
 七味の香りが鼻をつく。後で山崎にも確かめよう、と思った。




「名前聞いてすぐわかったよ。俺、空木の二人展行ったから」
 空はレジを締めている。レジが一日のレシートを送るガシャ、ガシャ、と大きな音を立てている時、僕と山崎は店の外側からシャッター代わりのネットを張っていた。
「俺と年のかわんない子がこんな絵描くのかって、燃えたから覚えてた」
「それで、か。山崎、店長にフカシ入れただろう」
「さすが」
 山崎はニヤリと笑った。
「店長はもともと反専務派だけど、今回妙に確信してるからおかしいと思ったんだ」
「俺も描くから言うけど、無理矢理描けったって辛いよ。それで描けなきゃクビ切るんだろ。専務辺りの人間は俺らみたいなペーペーとは直接会わないからね。だったら、あの江戸っ子を味方につけといた方がいい」
「策士」僕も笑い返す。「おまえは本社の偉いさんより怖いよ」
「確かに大袈裟に話したけどね。自殺説もあるのは本当だよ」
 レジの音が止んだ。
 沈黙。僕らは「またいずれ」と目配せした。
「見て、山崎君がブースカくれたの」
 空はポケットから快獣ブースカのキーホルダーを取り出して見せた。「あら、かわいい」と丸山さんが指先にブースカを載せる。
「そう、これで俺様は一歩リードしたのだ」
「リードって?」と、空。
「5万光年くらい先で全然見えない」と僕。
「何とでも言え。後であの時のブースカが人生の明暗を分けたと思っても遅いのだ」
「山崎君って、変」
「それがだんだん魅力的に見えるものだよ、ハニー」
「そうかしら?」丸山さん、さりげないツッコミ。
「大丈夫、山崎のスピードには誰もついていけないからね」
「ああ、通用口の文字が涙でかすんで見えるぜ」
「とっとと帰れ、彩の国へ」僕は蹴りを入れる。
「空ちゃん、また明日ねー」
「私、明日休み」
 ああ、と山崎が搬入口の駐車場に倒れた。「さあ、バカはほっといて帰ろう」と聞こえよがしに言って空の背を押す。「お疲れさまー」と丸山さんがバスの時刻を気にして駆け出した。
「俺様の空ちゃんに触るなー」
「今の一歩が人生の明暗を分けるのだよ、山崎」
「二人揃うと漫才みたい」
 空は楽しそうに笑った。初めて見た。





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