左回りのリトル(3)
- カテゴリ:自作小説
- 2025/05/12 20:40:34
駅の中を通らずに線路下の地下道を抜けた。駅ビル脇の通用口で店内スタッフの身分証を見せ、首から提げる。従業員用のエレベーターは灰色で薄暗い。乗り合わせた女の子はコートの下にもう春の鮮やかな色の服を着たちぐはぐさで、少し寒そうに両手で自分を抱いている。僕は一人六階で降りた。
「おはようございます」
「おはようございます」レジの横で在庫表をチェックする丸山さんが答えた。丸山さんは昨日は早番で帰り、空の歓迎会には欠席した。結婚しているのだ。長く勤めていて本社からもお呼びがかかっているが、家事はなるべく自分でしたいからと家に近いこの店にいる。僕は出勤表を確認した。店長、本社、会議14時~。山崎、休み。冬期セールが始まったばかりの隣の百貨店に客足が流れる。洋服などの店に比べれば差は少ないが、やはり雑貨などの商品は売れない。
「空ちゃん」
「はい」
「私、明日遅番だから、朝の納品チェックしたらこれに付けてね」
「はい」
「野宮君も来たし、1番お願いします」
「はい」と僕が答えた。1番は休憩の事だ。丸山さんはいったん店の奥に隠れてエプロンを外し、小さいバッグを手にして僕らに軽く頭を下げて出ていった。
客が「すみません」と空に声をかける。棚の上の、手の届かないマーカーセットを指差して話している。僕が接客を代わった。狭い店でも夕方になれば二人では慌ただしい。閉店までの休憩は一人ずつ取り、僕らはほとんど言葉を交わさなかった。
「今夜は冷えるわねぇ」
通用口を出て丸山さんが言った。
「二人とも風邪ひかないようにね。お疲れさまでした」
「お疲れさまでした」
僕と空が同時に言った。帰りの電車が同じなので並んで歩き出す。「もう慣れた?」と僕が訊くと、空は「うーん」と考えた。
「仕事は慣れたと言うか、丸山さん親切だし、何とか。でも野宮君には慣れない」
「え?」
「人数増えてた」
「増えた?」思わず立ち止まる。
「野宮君がお店に入ってきた一瞬だけ。すぐ消えたけど、背の高い、見た目体育会系」
河野?
「前代未聞。あれ、未見かな」空は真顔だ。
僕が黙り込むと空はまた歩きながら右手を額に当てて少し考えていた。
「こんなふうにはっきり見える事って殆どないんだよ、本当は」
僕が答えないのも構わず続ける。
「だって人の気持ち見えまくってたら空間に隙間がないよ」と苦笑する。「波長が合うのかな」
「最悪」
「うん」
空は僕の皮肉をすとんと受けとめた。罪悪感が刺す。僕は言う。
「見えるのは、気持ちなんだ」
「ちょっと違う。でも多分そんなもの」
地下道を抜けて坂をゆっくり登りながら、空は白い息と一緒に吐き出す。
「丸山さんには誰かの気配がする。多分ご主人だと思うけど、ふわっとしてるのがわかるだけ。そういうの、多分野宮君も知ってると思う」
「僕が?」
「その人の雰囲気ってあるでしょう。丸山さんの雰囲気がふわっとしてるの、ご主人いるからなんだよ。信頼とか、愛情とか」
「……」
「何て言うのかな、世界の安定。安心感。その基盤がご主人」
「ああ、そういう事か」
「そう。だからね」と、そこで彼女は言葉を切って、僕を見た。
「私には野宮君がかなしく見える」
パソコンの量販店の音楽、甲高い笑い声、走る車、足音とざわめき、雑多な音が響き合い混濁する駅前で、空の声だけが切り抜かれたように聞こえた。この子の前では無駄な抵抗はやめようと思った。駅の地下へ続く階段を降りる。
「何も訊かないんだね。…訊かなくてもわかるか」
「わからない。訊きたい時だけ訊く」
顔を見合わせた。互いに困って笑った。
「何か訊いた方がいいのかな。うーん」
「別にいいよ」
空は学校がある方を指差して「野宮君ってR大でしょう。大学ってどんな所?楽しい?」と尋ねた。話題を変えようと気を遣っているんだな、と思った。
「やらなきゃ確実に落ちこぼれる所。楽しさは半分くらい。空木さんは?美術系の学校とか出てそうだな」
「私は高校で、二度目の一年生の途中でやめた」
「どうして?」
「びょーきで入院してた…」
「そう、か、」
何かがひっかかった。考え込んで周りが見えていなかった。自動改札の前で慌ててパスケースを出す。空はもう改札の向こうで笑っているような泣きそうなような顔で僕を見ていた。それが何かに似ていると思いながら追いつく。
「そうだ、空木さん、ブースカに似てるって言われない?」
え?と目を丸くするとますます快獣ブースカに似た。「うわあ、そっくり!」と言うと空は赤い髪をくしゃっとつかんだ。
「昨日山崎君もそう言った。ブースカって何?」
「うん、うん」
「ブースカって何ってば」
「大丈夫、かわいいから」
「何で笑うんだろう」
ホームに降り立って、ふと河野に返された雑誌にブースカが載っていた筈だと思い出した。取り出してページを繰るがブースカは見つからない。横から覗き込む空が小声で「ブースカ…」と呟いたのがおかしかった。
雑誌を鞄に戻す時、河野に貰ったパンフレットが目についた。美久。持っているのが辛い気がした。僕はそれを空に見せた。
「空木さん、こういうの、見る?」
空はその表紙をじっと見つめていたが、「これ、もう見た。野宮君も行ったの?」
「いや、友達が行って、それで」
「見なくていいよ」
なぜと訊こうとしたが、空はもう僕の方を見なかった。