Nicotto Town



左回りのリトル(2)

 深夜まで営業しているハンバーガーショップで、僕らは壁を睨んでいた。
「壁に面したカウンター席って、不健全だと思う」
「人を驚かす突飛な発言をする神経の方が不健全だ」
「どうしてって訊いたのはそっちでしょう」
「きみには配慮というものがないのか」
「人と話している時に思考が余所へ行ってる人よりはまし」
 横目で空を見ると彼女も横目でこちらを見ながらフライドポテトをつまんで口にくわえた。もっともだ、と僕は思った。だが、あのお好み焼き屋は美久とも何度か行っており、思い出さずにはいられなかったのだ。僕もコーラのストローをくわえて黙り込んだ。僕らの間に空席が一つ。
 空は僕と同じ地下鉄沿線に住んでいた。何も言わず帰ろうとする彼女に僕は納得のゆく説明を要求した。その結果、空の降りる駅で途中下車とコーラとポテトで一戦交える事になったのだ。彼女はポテトを食べるでもなくくわえたまま、僕の様子を窺っている。僕はストローを噛みしめた。と、彼女は人差し指でポテトを口に押し込み、もぐもぐごくんと飲み込んで、「最初は、」と壁に向かって話し始めた。
「野宮君の連れだと思った。今日お休みだったから、デートか何かで、その後にわざわざ私の歓迎会に来てくれたんだと思った。だけどよく見たら、ああ、人じゃないなって。そうしたら時々消えるのね、それでこれは野宮君が映してるんだと思った」
「僕が?」
 何の話をしているのだろう。横顔の空は目を閉じて、誰と話しているのかわからない、そんな感じだ。もやもやとした物が胃の底の方から持ち上がってくる。
「確証はないけど」
 もやもやがすーっと引いた。
「何だよそれ」と僕は前髪を掻き上げ、そうか僕は不安だったんだ、と気がついた。空はまるでこれから何もかもを言い当てようとしているかに見えていたのだ。
「でも、見えないものが見えるって、きみは」
 問いかけのつもりでもなく僕がぽつりと言う。空はまた片手を額に当てて短い吐息をつき、「ごめん、私にもよくわからない」と俯いた。




 終電の時刻を回って、僕らは一駅ぶんの距離を歩いて部屋に戻った。僕と、美久と。
 電話に出たのが美久なら、空に見えるのは誰なのだろう、と僕がその特徴を尋ねると、彼女は鞄から手帳とペンを取り出してさらさらと似顔絵を描いてみせた。
 ふっくらした輪郭、遠くを見るような大きな目。空は顎の小さいほくろまで描いた。美久だ、と僕は息をのんだ。
「あの時『今すぐ会いたい人』って言ったでしょう。幽霊とかじゃない、野宮君が映してるんだって」
 空の言う意味がわからない。
「例えば」と空は椅子をくるりと回してこちらに向き直り、僕の隣の空席に視線を落とした。「彼女、今、電話してる」
「電話?」
「さっきの、野宮君と話してる時のイメージ。そしてそこから動かない。野宮君の、彼女に関する最新の記憶」
「つまりきみが見てるのは」
「野宮君だってこと」
 そんなやりとりを何度も思い返しながら歩いた。わかったような気がするだけで結局わからない。僕は「絵、うまいね」と間の抜けた答えを返したきり、何も言えなくなってしまった。
 ただわかるのは隣に美久がいる、それだけだった。




 寝不足の頭を抱えて学校へ行った。来週には試験だというのに、僕は窓際の席に座る美久の頭を確認した途端、睡魔に襲われた。
 わからない事だらけだ。
 何もかもが。
 目を開けたまま眠っていたんだろうか?ざわめきと、教室を出てゆく人波の中から、美久がちらりと僕を見た気がした。昨夜の電話が、ひと月ぶりの会話だった。
「おーい」
 視界を遮る何かがひらひらと動いた。河野が僕の目の前で手のひらを動かしていた。
「大丈夫かー」
「大丈夫ですよー」
「見事な条件反射」拍手。
 彼はグリーンのリュックから数冊の本を取り出して僕の前に置いた。「借りてたやつ」と言いながら、もう一冊を取り出した。
「返すの遅くなったから、これはおまけ。野宮、こういうの好きだろう?」
 銀座の画廊の展覧会のパンフレットだった。
「日曜に見てきたんだけどさ、結構良かったよ。じゃあな」
「サンキュ」
 河野の背中を見送りながら、美久と行ったんだな、と思った。パンフレットの表紙は数人の作家の絵のコラージュだったが、どれも美久の好みだった。こういう形で、美久と逢った事を僕に報告するのが河野らしい。
 どうするのがフェアなのか、僕も河野も手探りしている。
 遠慮しているのか?
 迷ってるのか?
 僕は本を鞄に押し込んで教室を出た。ひと月前の美久の言葉が耳に蘇った。





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