左回りのリトル(1)
- カテゴリ:自作小説
- 2025/05/12 19:32:23
テーブルを囲んで時計回りに自己紹介をした。僕が「野宮柾です」と軽く会釈をして終わる筈だった。熱くなった鉄板にお好み焼きのタネがじゅうっと大きな音を立てた時、向かいの席の彼女が僕に「あの、」と小声で言った。
「こちらは?」
「え?」
彼女の視線の先は僕の隣の空間だった。壁いっぱいの長いソファ、壁に掛けられた小さな絵を照らす間接照明の丸い明かりだ。僕の戸惑いを受け取って、彼女は困った時の仕種か手のひらを額に当てた。
「何?」
「何でもないんです」
そう言って軽く首を横に振り、曖昧な笑みを見せて烏龍茶のグラスに手を添えた。
変わった子だな、というのが彼女の第一印象だった。
僕は大学近くの駅ビルの画材店でアルバイトをしている。僕は休みだったが、前日に「明日から見習い社員が入ってくるから、歓迎会をやるよ」と店長に呼ばれていた。それで閉店時間に店に顔を出すと、短い髪を真っ赤に染めた彼女が真剣な顔でメモを取っていた。店長がレジ締めの手順を教えている。僕はお疲れ様ですと声を掛けるだけにして、店の奥からシーチングを抱えて出てきた山崎に軽く右手を挙げた。山崎の手から布の束の半分を取って目で彼女を示しながら「新人?」と尋ねた。
「そう」
「派手だなあ」
「そう?」
僕は棚のフォトスタンドを一通り倒した後で山崎を振り返った。
「でもないか」
彼はひよこ色の短い髪をつんつんと立たせていた。
作業をすべて終えて、彼女が僕の前に立ち、「ウツギです」と名乗った瞬間、店の明かりが一斉に消えた。
山崎が大きなお好み焼きを器用にひっくり返す。店長はウツギさんに本社の上司について知恵を授けている。ウツギさんは殆ど口を開く事もなく、頷きながら聞いていた。僕はお好み焼きにソースを塗り、山崎が横を行く店員に「マヨネーズ、ください」と言った。
「空の木って書くの、珍しいよね」
話題がようやく彼女の事に移った。
「そうですね、あまりいませんね」照れ笑い。───先程、彼女は空木梢子と名乗った。
「だいたい宇津救命丸の宇津」
「宇津井健の宇津」
「誰ですか、それ」と僕。
「若いから知らないか。百恵ちゃんのお父さんだ」と店長。山崎がアハハと笑った。空木さんは表情を変えない。昔のドラマの話だという。それから彼女が僕と同い年だという事、ここに来る前は半年くらい何も仕事をしていなかった事がわかった。
お好み焼き屋から駅へと戻り、店長とバス停で、山崎とJRの改札で別れ、僕らは地下鉄の乗り場まで一緒になった。暗いウインドウにシャッターを下ろした店が続く通路は閑散とし、広く明るく見えた。
「今日は約束があったんじゃないですか?」
不意に彼女が訊いた。がらんとした通路に響きそうだった。
「何もないけど」
「でも、今すぐ会いたい人がいるでしょう」
その断定的な口調に、突然胸が締めつけられた。その通りだった。
「遅くなっちゃってごめんなさい、すぐ電話したらどうかな」
「いや、いいんだ」
軽い眩暈を覚えながら僕は首を振った。「どうして?」
「このくらいの」と彼女は両手で自分の二の腕の辺りを差した。「ストレートの髪の人が野宮君の横に見えていたから」
何を言い出すんだろう?
「空木さん」
「そら」
「え?」
「私」
彼女はセロリのようにすっと背筋を伸ばして立っていた。
「みんな、空って呼ぶから」
そう言って空は右手を差し出した。「よろしく」と訳もわからぬまま握手をすると、彼女は僕の横の何もないところへ「あなたも」と言った。
「見えるの?」
「あなたは?」
「見える訳がない、何が、」見えているんだって?まさか、幽霊とか。
夏にテレビに現れる怪しい霊能力者が言うようなもの。写真にうつった白い影のようなもの。彼女に見えて、僕に見えないもの。
焦燥が頭上へ落っこちてきた。
「それじゃ、私はこれで」
「待って」と僕は呼び止めた。空はきょとんとした顔で僕を見た。
「待ってて、ここにいて。頼むから」
僕はステンカラーコートのポケットからスマホを取り出した。空の言うストレートの髪の、美久の名前を押す手が震えた。三回の呼び出し音の後で、ふっと通話が繋がった。
「はい」
「…美久?」
「……」
「……」
互いの戸惑いが伝わった。長い沈黙が続いて、僕はようやく事態を呑み込んだ。美久は抑えた口調で尋ねた。
「どうしたの?」
「いや、」僕は空を振り返った。空は両手で耳を塞いで僕をじっと見ていた。「ちょっとした、手違い」
「手違い?」
「うん。美久に何かあったかと思った」
「……」
「そんだけ。それじゃ」
僕はもう自分がなさけないような気持ちになって慌てて電話を切った。
「空木さん!」
「彼女、怒ってた?」
「どういう事だよ」
僕は乱暴にスマホをコートのポケットに突っ込んだ。
「きみは一体どういうつもりなんだ」僕の大声に、酔っぱらいがじろりと睨みながら通り過ぎる。空は僕の方など見ずに「あ、消えた」と言った。