私が経験した震災―2
- カテゴリ:日記
- 2025/03/12 15:27:31
はじめに
昨日の日記にたくさんのコメントをいただき
ありがとうございますm(__)m
夫とともに読ませていただき、みなさんのあの日の経験や
震災への想いを知ることができました
勝手ながらこの震災の日記は覚書なので
コメントにはお返事をしないことにしました ご了承ください
震災の夜、避難所を出て向かいにあるマンションに戻った
真っ暗闇の部屋に入ると、外と同じくらいの寒さを感じて身震いした
電気の復旧はまだで、唯一の暖房器具であるエアコンが使えない
今ならサブの石油ストーブや、せめて貼るタイプのカイロや
沸かしたお湯を入れる湯たんぽくらい常備している
それが何一つない…災害への準備については落第の状態だった
1月の末に急性心筋梗塞を発症した夫に寒い思いをさせたくない
手術して退院して現場復帰してわずか2週間での震災だった
部屋の熱源は唯一カセットコンロのみ…カセットは残り僅か…
お湯を沸かして飲んだものの、体を温めてはくれなかった
致し方なく体に布団を巻き付け寒さに震え
揺れに怯えながら抱き合って眠れぬ夜を過ごした
震度5はそれまで何度か経験した
震災の二日前にもあった
でも、今回の地震は6以上…
1→2→3→4→5 まではなんとなく体が覚えている揺れ
でも「6」は「5」の32倍だという記事を見た
「5」は怖かったが「6」は恐ろしかった
もちろん揺れの方向や振幅によっても違う
翌朝起きたら寒さが増していた
大きな余震がときどきあるが、主人は会社に行くと言った
当時病院へ医療に関わる物を届ける会社をやっていた
たくさんの方が医療を必要としているのだから行かないわけにはいかない
そう言って、警察署に駆け込んで会社の搬送車を緊急車両として使えるよう
申請して、それ以降休日意外毎日出勤した
翌日電気が復旧し、友人から譲り受けたIHヒーターで鍋を囲んだ
しかし元々家の熱源が都市ガスなので、ちゃんとした料理ができないし
何よりお湯が使えないしお風呂にも入れない
ガスが復旧したのは一か月半後…新潟からパイプラインで送っていただいたそうだ
新潟のみなさんありがとう、そして開栓しにきてくれた大阪ガスのみなさん
ありがとう それまで洗面器でちゃぽちゃぽ洗っていました(笑)
沿岸部や福島原発の被害がTVから流れる…
うちなんか被害にあったうちに入らないねといいながら見守った
震災の二日後、マンションの最上階の天井が落ちたことで
このマンションは「大規模半壊」と認定された
区役所に行って「罹災証明」をもらってきた
これまた人生初の「被災者」になった
家の中はというと、壁の亀裂・襖の歪み・外壁の剝がれ・何より一番
身体に堪えたのは床の傾きだった
そして日常にはまだ遠い…
昼はエリアメールの音にビクビクしながら、近所のスーパーに通った
ホットケーキミックスやパスタなど一人2点までなど…
店舗内は危険なので、外での営業が多かった
当時仙台の南の方にいた私たちのところには
福島第二原発の放射線が降っていたのかもしれないのに…
手持ちの野菜が無くなって、帰り道に作業をしている農家さんに
「すみません、お野菜少し売っていただけませんか?」
声をかけると「はい、あげるから持って行って」と
どっさりお野菜をくださった農家さんありがとう
そして数百人並んだイオンの駐車場で開店待ちをしていた時のこと
行列のそばに「神戸製菓」と書かれたワゴン車が停まり、中から
数人の方が降りてきて、私たちに一つずつ支援の贈り物を届けてくれた
お礼を言うと「私たちもあのときお世話になりましたから、
あのお返しをするのは今だと駆けつけました」と
涙が止まりませんでした
つづく
実際に経験しないと思いつかない必要品もありますね。
湯たんぽ、電子レンジ仕様のしか持ってません。災害時には使えませんね・・・
お野菜を分けてくれた農家の方、神戸から駆け付けてくれた製菓会社の方。
そして病後の体で医療関係者を助けるために一生懸命に仕事をされたご主人様。
たくさんの善意と助け合う心、そういうのも体験しないと、なかなか気づけません。
でも間接的にでも体験談を読ませていただくことで、考えさせられることが多いです。
ありがとうございます。
寒さの中、暖房のない生活。
イオンに数百人もの人が並んでいる様子。
被災された方たちは私たちが想像する何十倍も何百倍も大変だったのだと思い知らされました。
実際に体験された貴重なお話をありがとうございます。
横浜でもやってたのですが、わたすが住んでる地区は近所に消防署があるので、
計画停電の対象外ですた。
高台に住んでるので、遠くを眺めるとある地域がごそっと暗くなってて、他の地域は明るい
なんて光景が見られますた。
(´◉◞౪◟◉)
大変でしたね。
地震発生時、わたすは川崎市の自社オフィスビルの23Fにいますた。
大揺れしてビルが倒れるんじゃないかと思いますた。
停電して非常灯に切り替え、エレベータは停止。
電車もバスも止まりました。
歩いて帰宅した社員もいたけど大半が会社にお泊り。
非常食とアルミの毛布?が配給されました。
みんなフロアにごろ寝。
ラジオがあったのでみんなで聞き耳たて、スマホで津波の映像を観たり。
電車が動き出し、帰宅できたのは翌日の夕方近くだったかな。
停電してたっけか。
キャンプ用品の乾電池のランタン持ってたからそれで過ごしたような。
幸い横浜は大きな被害は無かったけど、物流がストップして食料もガソリンも手に入らなくて。
ガソリンはメーター1、2メモリぐらいしか残ってなくて、どこのスタンドも閉鎖でほんと焦りますた。
キャンプ用のバーベキューコンロを持ってたので、ホームセンターで炭1箱買ったけど使わなかった。
会社は福島に工場あって、仙台には支店もあって、大きくは無いけど復旧に数週間要する程度の被害受けますた。
川崎でも会社が1週間ほど休みないなったようなならなかったような。
出社できる人は出る。
通勤が大変で、どこの駅も長蛇の列で、なかなか電車に乗れない。
学校は2週間ぐらいお休みだったような。
TVは地震・津波の報道とACジャパンのCMばかりで、子供達もかなりストレスだったでしょうな。
義援金・募金以外で被災地支援でウチの会社も各種製品やシステムを提供してますた。
その中で、実はわたすの社内提案で研究部門が動いてくれましてな、流されて拾い集めた大量の写真データと写真を捜しに来た人の顔を瞬時に照合して持ち主に写真を返すシステムを構築して提供したなんてことも。
まあ、現地の皆さんの大変さに比べたら東京・川崎・横浜は大したことはなかったですが。
改めて、亡くなられた方のご冥福を祈りたいと思います。
もう寝る時間なので、これぐらいで。
それでもこうして文字にして下さって、聞かせてくださって有難うございます。お返事、いりませんよ。
TVや新聞でいくつもの体験談を見てきましたが、やはりお知り合い(お会いしたことはないけどね(^^;)のなまのお話は更に心に刺さります。今回も涙が出てきてしまいました。
ご自身たちも十分被災者であるのに「被害にあったうちに入らない」と思える強さ、やさしさに頭が下がります。
更なる続きも読ませてくださいね。
お返事?いらない、いらない。
実はね。3月上旬にお風呂の給湯器を交換する予定で、メーカーに発注まですんでいました。
震災で、「メーカーの在庫分全部被災地に送られました」と、ガス屋さんから連絡があり、その時の給湯器では、温度が上がらず水量も足りず…。秋口になるまでぬるいシャワーで過ごしました。シャワーも浴びられない人がたくさんいるのだからと、家族で言い合っていました。
お二人がご無事で、本当によかったです。