献花に行きました。
- カテゴリ:日記
- 2025/03/11 20:04:44
今日は3月11日です。
そうです『3・11』です。
14年前の今日、私は登米市という所に住んでいました。
家にいると、ズドンと縦揺れが長く続きました。
リビングのコタツにいたので、台所の様子をみて、
(あの食器棚が倒れたら、どう片づけよう)
と思っていました。
しかし、地震は長く、食器棚どころか、家が壊れるんじゃ
ないか?!と心配になったところで、揺れが止まりました。
食器棚は、倒れませんでした(突っ張り棒はついてました)
すぐに防災ラジオをつけて、状況を探ろうとしましたが、
何も無く、とりあえず、一番近くのスーパーへ、
食料品の買い物に行きました。
ところが、スーパーはガラスが全て割れており、
『店内には入れません』と店員さんが叫んでました。
仕方なく隣のローソンへ行くと、行列が出来ていました。
そこでパンとお菓子を少々買いました。
母は、勤務先が仙台だったので、今日は会社に泊まるだろう、
と思い、私と弟と猫のキジトラ君こと『るぅふぁす』と、
毛布をかぶって、ラジオを聞いていると、
なんと夜の7時頃に、母が帰ってきました。
手には買い物袋もありました。途中のコンビニで買ったの
だとか、コンビニは紙と鉛筆で計算して真っ暗中、
商品を売っていたそうです。
母が『避難するわよ』というので、近所の役場へ行きました。
そこにはストーブがあり、もう1組避難している人達が
いました。
しばらくして、佐沼の大きな避難所に移って欲しいと言われ、
真っ暗な中、車で先導してもらい、避難所を移りました。
佐沼の体育館が1番の避難所だったのですが、満員だ、
という事で、赤ちゃんなどがいる人用の集会所みたいな
所に避難させられました。
体育館は、座るのがやっとで横になれなかったそうですが、
集会所の方は、布団が支給され横になって眠れました。
布団が1枚で寒かったです。
母は、携帯のTVでこっそりニュースで津波の様子を見ていました。
朝になると、河北新報というローカル新聞が届き、
見出しに『300人死亡』と書いてありました。
仮設トイレは、すぐに作られ、食べ物は、コンビニのお弁当が冷たいまま配布されました。
地震から4日後、山形の親戚と連絡がとれ、当時外猫だった、
『ちびとちゃこ』には、ご飯を山盛りおいて、
飼い猫の『るぅふぁす』だけ連れて、山形の親戚の家へ
避難しました。
山形の親戚の家で、TVをみて『ぽぽぽ~ん』だらけなのに
ビックリ!また津波についても、この日やっと認識しました。
親戚の家には4日ほどお世話になり、自宅へ戻りました。
『ちびとちゃこ』は元気でした。
14年目にして、役所で初めて献花してきました。
縦揺れ、怖かったです。しかも長かったし。
外に出たら、スーパーがでたらめにガラス、バリンバリン割れてるし、
幸い内陸なので、津波の被害は無かったのですが、古い建物は、倒壊してました。
自宅、持ってくれて本当に良かったです(´;ω;`)ウゥゥ
ちびとちゃこは、心配でしたが、親戚の家にやっかいになるのに、
3匹、それも2匹はまだ外猫だったので、連れていくのは、やめました。
ごはんは、いっぱいおいていきました。
4日後に自宅に帰ると、一目散に『ちび』が私たちを目掛けて駆けてきてくれて、安心しました。
あの震災も酷かったですが、日付的には、能登の方が酷いかと思います。
ちびとちゃこを置いていくのは
心配だったでしょうね、、、
自宅も倒壊してなくてよかったですね
あの震災を語り継がなくてはと思います