私が経験した震災―1
- カテゴリ:日記
- 2025/03/11 09:24:55
あの東日本大震災から今日で14年になる
14年前の記憶をたどって、初めて日記にしてみることにした
激しく揺れるマンションの居間で、咄嗟に天井まである奥行きのない戸棚と
揺れて落ちそうになるTVを片手ずつで抑えて途方に暮れる自分がいた
揺れは長くて、永遠に続くのではないかとさえ感じた
奥のキッチンでは観音開きの食器棚が45℃傾いて
向い側のシンクの上の物入でかろうじて止まっていて
開いた扉から、ゆっくりと雪崩のように食器が落ち続けていた…延々と
一人だったが、もう止めて…と思わず声が漏れた
地震が収まり、傾いた戸棚を渾身の力で床に倒しTVは床に移動させた
キッチンは足の踏み場がないほどの割れた食器で床が見えなくなっていた
居間にあった60㎝水槽3つからは揺れて飛び出した熱帯魚たちが
絨毯の上に散らばりもがいていた(ごめんね)
すぐ家族に電話したが繋がらない…
ライフラインは全て遮断されていた
でも、こうしてはいられない
浴槽とバケツに貯められるだけ水を張って一気に片づけを始めた
動線の確保・割れ物などの危険除去・照明の確保・ラジオと電池はどこ?
食料品の確認・何よりも大切な安否確認と状況確認だけができなかった
ここを何とかしておかなければ…その思いだけだった
ここが津波に襲われる地域だったなら私は今いないかもしれない
今なら「逃げればいいのに、津波来るって分からないの?」
そう思われるだろうが、そのときにその場にいたらそう思えたという自信はない
夕暮れが近づいてくるから…急がなきゃ 何度も鳴る地震アラートに
ビクビクしながら、ひたすら考え、動いた…
薄暗くなったころに夫から電話がかかってきて、会社も大変だったようだ
向かってはいるが信号が点いていないし、道路にひび割れや陥没や隆起があって
渋滞している…でも譲り合って進んでいて、何とか家に着けそうだと
いつもは20分の道を1時間半かけて帰宅した
一通り話をしたところで、避難所へ行くことになった
裏の集会所…石油ストーブが焚かれ、冷え切った体には羨ましかったが
足の踏み場がなく、場を埋めている人たちのまなざしから
「ここはいっぱいだから」と聞こえた気がしてその場をあとにした
向かいの〇〇局も避難所になってるらしい…近所の人の言葉で
そちらに向かってみるが、内壁のタイルが剥がれ落ちていた
そこは官公庁のホール…すでに多くの人が集まり
コンクリートの床に段ボールを一枚ずつ敷いてみんな項垂れていた
その後、バナナ半分と乾パン1枚ずつが配られた
その時に地震の大きさや大きな津波が来たことが人づてに聞こえてきた
「津波でいっぱい流されたんだって」
「あの堀で何十人もの遺体が見つかったんだって」
私たちは騒音と寒さに耐えきれず自宅に戻った 寒くても家にいよう
外に出ると街には停電のせいで真の闇が広がっていた
そして空には今までに見たことのない満天の星と
遠くにコンビナート火災の炎がゆらめき
救急車と消防車がひっきりなしで行き交っていた
夜半には雪がちらついていた
「仙台終わったかも」…そう思えた夜だった
つづく
それでもすぐに水を貯めたり、割れ物の片付けをしたり、
気が動転していながらもちゃんと行動しているのはすごいことです。
私は千葉県ですが、こちらもかなり揺れました。
確か震度5強でした。タンスや本棚も倒れました。
元々、市の半分位は埋め立て地なので液状化もひどかったです。
幸い、うちの地域は電気も水も大丈夫だったのはラッキーでした。
貴重なお話、ありがとうございます。
続きも読ませてもらいますね。
こんばんは(^^)
東北にいながら、秋田は震災の被害少なかったように思えます。
あめんぶるさんのところ、ひどかったのですね。大変でしたね。
実は秋田沖地震の時は、仙台にいたので、
私はまだ怖い地震に遭遇したことがありません(>_<)
私の主人の実家は宮古です。甥っ子夫婦が住んでいました。
家は流されましたが、甥っ子家族は無事でした。
中々連絡が取れなくて心配しましたが、次の日にようやく連絡が取れて無事を確認できました。
叔父さん夫婦は、家ごと流されて亡くなりました。
あの年の8月に一度だけ宮古に行ってきました。
がれきはかたずけられていましたが、何もかも無くなっていました。
あれ以来一度も行っていません・・・どうなってるのかなあ
TVをつければ、地図が震度の数字で埋め尽くされ
海岸は津波警報で真っ赤
津波が押し寄せる画面に向かって「逃げて、逃げて」と祈ることしかできず
14年たってもあの衝撃はよく覚えています。
大変なご経験をお話しいただいて、ありがとうございます。
その中で行動できることが凄いと思いました。
本当にご家族の方もご無事で良かったです。
何年経っても震災を思い返すことは辛いこととお察ししますが、実際に経験した
あめぶるさんにしか語れないお話だと思いました。
震災を風化させないためにも、お聞かせ下さってありがとうございました。
大変な経験をなさってたんですね 揺れがおさまったら 即 浴槽に水を張って片付けをするって
考えが凄いですね いざとなると 私には 出来ないかもしれません 呆然としてしまいそうです
津波は この日まで こんなに被害がでるなんて思ってもみませんでした
ご家族が無事でとにかく 良かったです それが1番大切です!
あめぶるさんが好きで集められていた青花の器が壊れた現場を、自分がその場で見たように感じるお話でした。ご家族が無事で良かったです。
東京もかなり長く揺れましたが、台所の秤と高い場所に置いてあったティッシュの箱が床に落ちた位でした。家族との連絡も比較的早くとれましたが、電話がなかなか通じなかったような。
TVで、津波や原発事故、都内の帰宅難民や埋め立て地の液状化、東京湾岸の火災などの映像を見て、日本はこれからどうなるんだろう?東京に住み続けることができるのか?と、大きな不安を感じたことを憶えています。
でも伝えていかなければならないことでもありますね。
貴重なお話をありがとうございます。
貴重な、大事なお話をありがとうございます。
ちょうど、息子が就職のために家を離れ、福岡市内に引っ越しをした日でした。
家電を買いそろえ、1Kの部屋に設置し、最後にテレビを据えて最初に画面に映ったのが津波の映像でした。
あの瞬間の衝撃は忘れることができません。
その後、九州でも熊本や西方沖などの大きな地震があり、突然来る災害に備えて、備蓄したり、避難経路を確認したりするようになりました。
ビルがゆさゆさ揺れて、女子社員の「怖い!」という声が響きました。
揺れが収まってからすぐに外へ避難。3月とはいえ寒い日でしたが
上着を持ち出すことはできず、みんな寒さに震えていました。
1時間ほどして社内に戻り、動いていたバスで最寄り駅に行きましたが
電車は不通。自宅に電話して無事を確認した後
線路の点検が済んで電車が動き出すまで駅で8時間待ちました。
夜中過ぎにようやく自宅に帰ると、幸い大きな被害はありませんでしたが
棚の上のものがたくさん落下したそうです。
その後はしばらく計画停電が続いて不自由な生活でしたけれど
避難所生活の方たちを思うと文句は言えませんでした。
あめさんには泣く余裕もなかったでしょうに。。
本当に、ご家族ともども無事でよかったです。
東京でもかなり長い事揺れました。これはやばいかも、と思った地震は初めてでした。私もとっさに食器棚とCD棚を抑えたくて、手が届かない…と焦ったのを覚えてます。その後、ただ置いてあっただけのCD棚は揺れ動かないよう器具を付け、食器棚のガラスには飛散防止フィルムを貼りました。
当日都心に居た夫と息子は帰ってこれず連絡も殆ど取れず、一人不安な夜を過ごし、翌日帰宅した夫の顔を見た時に思わず目頭が熱くなったのを覆えてます。普段そんなこと全然ないのに(^^;
TVで映し出される津波の映像に恐怖し、その後原発の様子に恐怖し、、これがすべて嘘だったいいのに、と思いました。
もう14年と思う瞬間もあるけど、現地の様子を見るとまだまだ14年と考えてしまいます。
何かあったら避難所へ行けばいいと考えていましたが、大きな災害時には避難所も限界があるんですね……。
私は当時、大阪市内で仕事中でした。
揺れはゆっくりと始まり、大きくはないけれど長く続いて、今までにない地震に強く不安を覚えたのを覚えています。
その後に震源地が大阪から遠く離れた東北だと知り……衝撃を受けました。まだ被害の状況は分からなかったけれど、大阪まで揺れる地震、もう絶対に普通じゃないとすぐ分かったので。
どれほど備えていても、自然の前では人間ってなんて非力なんでしょう。
それでも、残された者は次に備えて、頑張って前を向いていくしかない……。
14年。長いようで短いですよね……。
前日まで卒業旅行でスキーに行っていた息子が 帰宅していたのが幸いしました。
1日ずれていたら 上越新幹線が脱線で 帰宅出来なかったかもしれなかったから
主人は都内の職場に泊まり込み
親戚の娘は 都内から千葉まで歩いて帰宅したそうです。
釜石にお住まいの友人のお母様は 慌てて高台にあるご自宅まで 急いだそうですが さっきまで居た所が津波に飲み込まれていく処を目の当たりにしたそうです。
もうあれから14年経つのですね。
直ぐ連絡がついたとか、知らない所で救われていたみたい。
下の子は会社に泊まり、パパは夜10時30分すぎに歩きと電車乗り継ぎで帰りました。
その後が、もっと大変だよね。
忘れる事無く、出来る事は準備しようと思います。
私は関東に居たのですが、今まで経験したことのない大きな揺れに「関東大震災」が来たんだわと思いました。
まさか東北の福島沖の地震が大きな揺れになるなんて、その時は思えませんでした。
家の中の色々な物が床に落ちて、お皿も割れました。交通も混乱し外出中の家族3人は翌日の昼頃まで帰宅できませんでした。
夜になり少しづつ津波の被害が報道されるようになり、こんなことが起きるなんてと胸が潰れるような気持ちになった事を覚えてます。
そして、この後、原発災害も起きるのですよね・・・