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琉球王国建国記念の日


こんばんは!1日(土)は、

西日本では西から次第に雨が降り雷を伴って激しく降る所もあるでしょう。
又、山沿いや山間部では雪の混じる所がありそうです。
北陸や北日本は雲が広がりやすく所々で雨が降る見込みです。
東日本太平洋側は概ね晴れるでしょう。
南西諸島は曇りや雨となる見込みです。

【琉球王国建国記念の日】 Ryukyu Kingdom Foundation Day

☆琉球王国建国記念の日は毎年2月1日に祝われています。
 この日は1425年に中国の明王朝が琉球王国の初代国王である、
 尚巴志(しょうはし)様を正式に王して認めた日を記念しています。
 
 《尚巴志王(しょうはしおう)》

 1372年(洪武5年)ー1439年6月1日(正統4年4月20日)

 琉球王国の第一尚氏王統・第2代国王(在位:1422年ー1439年)

 尚思紹王(しょうししょうおう)の子です。

 〔尚思紹王〕
 
  1354年ー1421年

  琉球王国の第一尚氏王統・初代国王(在位:1406ー1421年)

  本名は思紹様で尚姓様は後に送られたものです。

  もと山南(南山)国の佐敷按司です。
  神号は君志真物(きみしまもの)様です。
  父は鮫川大主様、母は大城按司のの娘様です。

  ≪按司(あじ・あんじ)≫

   琉球諸島及び奄美群島に存在した称号及び位階(いかい)の一つです。

   琉球や奄美に王制が普請(ふしん)される以前は、
   グスク(城)やハラ、モリ(盛)を拠点とする、
   地方豪族の首長やその家族の称号として使用されました。
   この意味で甘味では特に「アジ」と片仮名書きをします。

   王制が整った後は、王族のうち、王子に位置し、
   王子や按司の長男「嗣子(しし)」がなりました。

   琉球の王制では特に国王家の分家が按司家と呼ばれるようになり、
   これは日本の宮家(みやけ)に相当します。

   他に按司は王妃、未婚王女、王子妃等の称号にも用いられました。

   古くは王号の代わりとして、
   又、地方の支配者の称号として用いられていました。

 〔尚巴志王は中山王(ちゅうざんおう)、武寧(ぶねい)を攻める〕

  三山時代の沖縄島では・・・

  ・北山

  ・中山

  ・南山

  これらの3王国が覇権を争っていました。

  沖縄島南部の佐敷グスクを拠点としていた尚巴志様は、
  1406年に中山王である武寧を攻め滅ぼします。

  そして・・・

  父の尚思紹様を中山王に即位させると、
  自らはその後継者としての地位に就くのでした。

  ≪尚巴志様の強さは港にあった≫

   尚巴志が実力をつけた要因としては、
   馬天(ばてん)や与那原(よなばる)といった、
   良港に恵まれた点が挙げられます。

   尚巴志様は交易で経済力を高め、
   日本や明の交易船から鉄を買い求めて農具や武器を造り、
   生産力や軍事力を高めました。

  ≪尚巴志様と鉄≫

   尚巴志様には鉄に関する伝承が残っています。

   少年の頃に鍛冶屋に3年がかりで造らせた愛剣がありましたが、
   大和商人から求められまして、船一杯の鉄塊と交換しました。

   その鉄で農具を造って農民に分け与えましたので、
   農民達は尚巴志様を敬うようになりました。

  ≪尚巴志様はその勢いのまま北山王を滅ぼす≫

   尚巴志様は1416年に今帰仁(なきじん)グスクの北山王を滅ぼし、
   沖縄統一の足掛かりをつかみます。

   1421年に父の尚思紹様がお亡くなりになりますと、
   翌年に中山王に即位します。

  ≪尚巴志様、三山を制し琉球王国を樹立≫

   1429年に島尻大里グスクの南山王を滅ぼして三山を統一しますと、
   琉球最初の統一王朝を築きます。

   これが・・・

   約450年続く、琉球王国の始まりです。

  ≪尚巴志様は王国の拠点を整備≫

   尚巴志様は浦添から首里へと拠点を移しまして、
   琉球王国の拠点として首里城を築きます。

   三山統一前の1427年には、
   中国大陸からの渡来人である懐機(かいき)さんに命じまして、
   首里城の外苑に人工の池「龍潭(りゅうたん)」を掘らせまして、
   樹華木(じゅかぼく)を植えて安国山(あんこくざん)を整備させました。

   この経緯は・・・

   沖縄最古の石碑「安国山樹花木之記碑」に刻まれています。

   *安国山樹花木之記碑・・・沖縄県立博物館・美術館所蔵

  ≪尚巴志様が築き上げた王国のランドマーク、首里城≫

   首里城は琉球王国の政治と文化の中心地でありまして、
   個々で民からの冊封使(さくほうし)をもてなす、
   儀式や宴会も催されました。

   琉球王国の王がお亡くなりになった場合は、
   冊封使400~500人が2隻の船に分乗して来航しまして、
   先王の葬式に出席した後に、首里城で新王の即位式に臨みます。

   この時に新王に皮弁冠(ひべんかん)等を渡しました。

  ≪尚巴志様は積極的に貿易を進め、琉球文化の礎を築く≫

   尚巴志様は那覇港を整備して対外貿易を積極的に進めました。

   日本や明は勿論ですが、三山統一に前後してスマトラ島やジャワ島、
   李氏朝鮮とも通行を結びました。

  ≪尚巴志様の対外貿易によってもたらされた文化≫

   中国東南部の弦楽器「三弦」が沖縄にもたらされまして、
   琉球王朝では改良されまして「三線(さんしん)」となりまして、
   宮廷楽器として愛用されるようになるのもこの頃です。
 
   14世紀後半から15世紀にかけて、
   シャム国(タイ王国)から酒の蒸留技術が伝わりまして、
   琉球の気候に合った独自の蒸留酒(後の泡盛)が誕生します。

   尚、甘藷(かんしょ)やサトウキビが明からもたらされたのも、
   尚巴志様の時代とされています。

  ≪染織技術にも影響を与えた≫

   又、海外から伝わりました染織技術は、
   琉球王国の庇護(ひご)を受けて大いに発展しまして、
   鮮明な色彩と大胆な配色の「紅型(びんがた)」を生み出しました。

   このように現在にも伝わっている琉球文化は、
   対外貿易によって海外から伝わりました技術を基礎としまして、
   琉球王国の統治下で大いに育まれました。
   
問題 上記のような繁栄をした琉球王国ですが、
   1609年に日本のある〇〇藩に侵攻されまして、
   島津公に統治されることになりました。

   〇〇に含まれる藩名を教えてください。

1、福岡

2、佐伯

3、薩摩

ヒント・・・〇琉球王国の繁栄と日本の関係

      明王朝と朝鮮王朝との関係がありながら、
      16世紀の末に日本列島では豊臣秀吉公が天下統一を果たし、
      目指した朝鮮出兵で、琉球王国は兵糧提供の義務を負わされます。

      その後、日本で江戸幕府が誕生しますと、
      幕府は琉球王国に明との間接貿易を要求しますが、
      琉球王国がこれを無視し続けます。

      その後、徳川家康公の許可を受けた、
      〇〇藩の島津軍が琉球王国に侵攻します。

      〇〇藩による3000の兵と軍事的制圧によって、
      明王朝と共に、〇〇藩の島津家にも服属した両属状態になります。

お分かりの方は数字もしくは〇〇に含まれる藩名をよろしくお願いします。










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