ふみの日
- カテゴリ:勉強
- 2024/12/23 00:42:03
こんばんは!23日(月)は、
北日本や北陸から山陰では雪や雨が降り、雷を伴う所もあるでしょう。
北日本の日本海側では猛吹雪や吹き溜まりによる交通障害、
暴風や高波に警戒してください。
その他の東日本から西日本は広い範囲で晴れますが、
所によりにわか雪やにわか雨がありそうです。
南西諸島は曇りや雨となるでしょう。
【アウトドアな過ごし方】
A、人の場合はその時代の服装等を知ろうとし、
動植物の場合はその季節の移ろいを感じようとすることです。
【ふみの日】 Letter Day
☆毎月23日に手紙に親しむ活動を行う日です。
昭和54年には郵政省が特殊切手を発行したことで始まりました。
<概要>
〇12月23日に起きた出来事での手紙
@1359年 足利義詮(あしかがよしあきら)公が、
南征の為、京を出立(しゅったつ)
★南北朝~新将軍・足利義詮公のと龍門山の戦い
正平14年・延文4年(1359年)12月23日、
新将軍となりました足利義詮公が大軍を率いて京を出発します。
元弘3年(1333年)、ともに鎌倉幕府を倒すも、
その後に後醍醐天皇(第96代)が行いました、
建武の新政に反発した足利尊氏公が楠木正成を倒して京都を制圧し、
そこに新たな天皇を擁立して開いたのが北朝です。
それに対抗して・・・
吉野「奈良県吉野郡吉野町(よしのちょう)」へと退いた、
醍醐天皇が開いたのが南朝です。
こうして始まりました南北朝時代も、
延元3年・建武5年(1338年)には、
南朝期待の星である北畠顕家(きたばたけあきいえ)さんや、
新田義貞さんが相次いで討ち死にします。
1338年8月には、足利尊氏公が征夷大将軍に任ぜられ、
京都に室町幕府を開きます。
1339年には後醍醐天皇が崩御され、
概ね北朝有利に戦いは進みます。
その北朝には観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)の勃発や、
執事(将軍の補佐)の高師直(こうもろなお)さんが謀殺される等、
北朝内での内部抗争と主導権争いも激しくなりまして、
正平7年・文和元年(1352年)には、
一時的に南朝の盛り返し(八幡合戦)もありました。
正平13年・延文3年(1358年)4月、
足利尊氏公が死去したことを受けて、
その年の暮れには嫡子の足利義詮公(三男)が、
第2代室町幕府に任命されました。
この頃も北朝の幕府方が都を制圧しまして、
優位にはあるものの、山名時氏さん山名師氏父子の離反や、
九州で暴れる懐良(かねよし・かねなが)親王のこと等、
未だに南朝勢力の不安を抱えたままでありました。
新将軍となりました足利義詮公は、
関東で奮戦する畠山国清さんを援軍に呼び寄せまして、
正平14年・延文4年(1359年)12月23日、
河内(大阪府北部)から紀伊(和歌山県)方面へ、
出立(足利義詮公の南征)したのです。
大手(正面)を行く、足利義詮公の軍は約2000騎で、
その数のあまりの多さに西宮から尼崎、そして鳴尾周辺の寺社では、
そこかしこに兵達が満ち溢れる程でした。
一方、足利義詮公が都を発った同じ日に、
南朝の後村上天皇(第97代・後醍醐天皇の第七皇子)は、
北朝方の攻撃を警戒しまして、
南朝の仮宮を楠木正成さんの菩提寺である、
「観心寺(かんしんじ)=大阪府河内長野市)」に遷(うつ)します。
これは、あの楠木正成さんの末っ子である、
楠木正儀(まさのり)さんの進言によるものといわれまして、
この頃の後村上天皇が最も信頼を置く武将でした。
将軍出立の翌日の24日に搦手「(からめて)=横手」として、
都を出陣した畠山国清さんの軍は関東から連れてきた大軍を率いまして、
この日は「八幡山=京都府八万市男山」の麓にある、
葛葉「(くずは)=大阪府枚方市葛葉」に陣取ります。
しかし、その後の北朝型の軍は楠木正儀さんの本拠である、
東条「ひがんじょ=大阪府柏原市」近くまで迫りますが、
容易に攻めて来なかった為、
楠木正儀さんは和田正武さんとともに撃って出る作戦をとりmした。
翌25日、楠木正儀さんと和田正武さんの軍は、
四条「現:近鉄の瓢箪山駅周辺」にて畠山国清軍とぶつかりました。
一方でこの頃、畠山国清さんの弟である、
畠山義深(よしふか・よしとお)さんは、
将軍足利義詮公の命を受けて紀伊方面へ向かいます。
龍門山(和歌山県紀の川市)には、
既に南朝方の四条隆俊さんが3000の兵で陣取っていました。
そこを慎重に、周囲に目を配りながらゆっくりと進む畠山義深さんの軍。
そこで四条隆俊さんは侍大将の塩谷伊勢守さんを使用して、
陽動作戦をとります。
畠山義深さんの大軍を見て、退く姿勢を見せる塩谷軍。
畠山義深さんの側近、遊佐勘解由(ゆさかげゆ)さんは、
「それ、敵は逃げたぞ!追いかけよ!」と飛び出します。
これは南朝方の作戦で途中まで追いかけたところで、
山間に伏せていた兵が一斉に矢を射かけます。
陽動作戦は成功し、戦いは北朝の敗北となったものの、
深追いし過ぎた塩谷伊勢守さんは戦死します。(龍門山の戦い)
この戦いは北朝幕府軍の勝利となり、
さらに、南朝方の諸城を次々と落城させていきました。
最後まで残った赤坂城(大阪府南河内郡千早赤坂村)では、
守りを固めようとする楠木正儀さんと、和田正武さんが対立します。
和田正武さんが単独で、
囲む幕府軍に夜襲をかけますが、あえなく敗退します。
止む無く、楠木正儀さんと和田正武さん達は、
共に金剛山(奈良県御所市と大阪府南河内郡千早赤阪村)の奥深くに撤退。
こうして正平14年・延文4年(1359年)から翌年に展開された、
足利義詮公の南征は終わりを告げまして、
この後、楠木正儀さんによりまして秘密裏に和平交渉が行われますが、
失敗に終わりまして、南北朝の動乱は続くことになります。
問題 足利義詮公が南征の為出立した、1359年ですが、
当時の尼崎が軍事上の拠点でもありました。
これは中世の尼崎の歴史を考えるうえで重要な出来事で、
現在寺町にある大覚寺さん所有の、
「大覚寺文書(兵庫県指定重要有形文化財)」には、
在陣中に足利義詮公が大覚寺さんに与えた寺領寄進状の写しや、
足利義詮公の執事(細川清氏さん)からの祈祷謝礼の書状が、
伝えられています。
この書状の宛名の「園殿」に関してですが、
園基隆「そのもとたか(1314年ー1374年)さんのものであると、
考えられています。
この園基隆さんは〇〇時代末期から南北朝時代の公家です。
〇〇に入る時代を教えてください。
1、平安
2、鎌倉
3、江戸
ヒント・・・〇祈祷謝礼の書状
足利義詮公の花押の形状や類似の筆跡の文書等からは、
観応3年(1352年、南朝:正平7年)、
3月に出されたものである可能性が高い文書です。
@〇〇幕府最後(9代)の征夷大将軍
守邦(もりくに)親王です。
お分かりの方は数字もしくは〇〇に入る時代をよろしくお願いします。
コメントやお答えをありがとうございます。
スズラン☆さん、どうもお疲れ様です。
そうですね、昔は厳しい時代がありましたね。
お優しいコメントで、先人の方々はお聞きなさったら嬉しいでしょうね。
問題ですが、2番の鎌倉です。
流石!完璧です。
どうもおめでとうございます(祝)
陽射しがなくなり、冷えてきていませんか?
どうか体調を崩さないように、暖かくしてお過ごしくださいませ。
当時は暖房設備も殆どなく、
蓑のコートと陣笠で頑張ったのだと思うと、
厳しい時代があって今があるんだなと思いました・・・
答え 2