心を整えるスヌーピー 莫妄想
- カテゴリ:日記
- 2024/09/18 21:18:53
久しぶりの、心を整えるスヌーピーシリーズ
間が空きすぎて、どこまで書いたのか忘れましたw
まあ、だいたいで。。。
本日のお題は、「莫妄想」
まくもうぞう、と読みます。ばくもうそう、ではありません。
禅でいうところの妄想とは、エッチな妄想とかいう妄想ではなく、自らを縛るような何らかの思いに囚われている状態のことで、特にここでは比較による価値付けにとらわれることを指しているようです。
美醜、貧富、愛憎、色々とあると思いますが、そういう比較によって物事を価値づけることで、無為な欲に囚われ、自らを失っていく。
自分自身による価値意識が明確であれば、人との比較や人からの評価はどうでも良く、自由にストレスなく生きられますよという教えなのですが。まあね、よくある話といえばそれまでです。
私は、一重まぶたの人が好きです。
世の中の女性にアンケートをすると(具体的に誰が母集団なのだか定かではありませんが)、9割以上が二重瞼が可愛い、一重まぶたであれば自分も二重になりたい、という回答をするそうです。
別に二重が嫌いだとか、可愛くないとは思いません。
ただ、どっちが良いかではなく、わたしは一重まぶたが好き。男であろうが女であろうが。それ以上でも、それ以下でもありません。私自身は二重ですけどねw
なんていう他愛もない話であれば良いのでしょうが、人はどうしても比較をしてしまうものです。評価を気にしてしまうものです。
何であれば、比較して自分の優位性を確かめないと、人からの評価で自分を他者によって持ち上げてもらわないと、いてもたっても居られない、なんであれば生きていけない人というのもいるものです。もちろん、当人がそうしたいのであれば勝手にその様にすればいいと思うのですが、実際はそうも言っていられない。
往々にしてその手の人は、他社からの評価の獲得や、比較優位を感じる自意識が満足されないと、それを与えてくれない人を敵とみなし、執拗に攻撃する。有意な他者とは自信の自意識を満たしてくれる人であり、それは味方であって、それ以外は全員敵となる。敵を攻撃することそのものが自尊心を満たす行為になるので、やめられない。他社への攻撃をやめたら、自分がなくなってしまうので。
そしてさらに厄介な事は、その自意識を満たすために、息を吸う様に嘘をつく。嘘をつくというのは的確な表現ではありませんね。あらゆる過去を、自分の都合の良いように解釈しなおし、自身の記憶を上書きしてしまいます。意識的にはやっていません。まさに息を吸う様に、そのようにします。そうしないと、生きていけないから。だから、実は当人は少しも嘘をついているという自覚はありません。当人にとっては、すでに再解釈され上書きされた記憶なので、それがどんなに妄言虚言であっても、嘘ではないのです。そして、そうやって周囲を虚言に巻き込んでいく。
嘘だろうが妄想だろうが、とにかく自分の自意識、自尊心を満たすものに囲まれていないと、自分がなくなってしまう。敵を作って攻撃し、攻撃することそのもので溜飲を下げるなければ、心が壊れてしまう。だから、他社への攻撃や、虚言を完全に断ち切られたら、おそらくその人は人格崩壊を起こしてしまい、生きていけなくなってしまうだろうと思います。
でも、大変だろうなと思います。
常に、身の回りの微細なことに苛立ち、自らをコントロールする術もなく激高し、たわいものないことに怯え、不安にさいなまれ、毎日を疲れ切って生きているのでしょう。
哀れだなと思います。
そしてそれに翻弄される人たちも、心から哀れだなと思います。
わたくしの信仰する神様は、他者を愛せと説きます。
頬を打たれたら、反対の頬を出せと説きます。
その意味を、もちろん私は理解します。
しかしそれは、愛を与えれば、頬を差し出せば、そこに答えるチャンスを与えられる、そのことにより自身も諍いから逃れ救われるという可能性があるのなら。
だから神は、可能性のない者を一蹴し、劫火で焼き払い、皆殺しにしてしまいます。
心穏やかに生きていくためには、時には焼き払う覚悟と厳しさが必要なのかもしれません。
なんの話でしたっけ?
なんかいつものように愚痴を並べているだけという噂もありますが、そんなことないですよ (`・ω・´)キリッ
まあいいか。。。
ではでは。
ξ´๑•ω•๑`Ҙ OK
他者への愛は、与えるものではなく、自らへの慈しみの結果でしかありません。
この世界に真理はありません。真理があるとすれば、それは求めて辿り着くものですが、その求め辿り着きたいという思い自体が欲望であり、その欲望の先に真理はないと思います。
そういうことを言うから、私はいつまでも生粋のクリスチャンにはなれませんが、なる気もありません。