Nicotto Town


ぴのぴののなんでも日記


『光る君へ 33回』この時刻に観終わりました。


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 休暇中の膨大な録画が溜まっているのに、なんと今日の退勤後直行で、我慢できずに『ラスト・マイル』を観に行ってしまいましたあーっ!!
 感想・考察は、いつか書く映画考察日記に残しますが、今年の邦画記録になりそうな大ヒット満員でした。
  
 ではやっと「光る君へ 第33回」を見終わったので記録を残します。

  • ・うーーーーーむ。27分で全く不明語、波風も無い。

  • ・平維衡は、武家平氏の始祖なんだろうか?

  • ・隆家の言う帝の直轄軍構想は現実化したんだろうか?

  • ・出たあー、公文書偽造!犯人は右大臣で決まり?でもなぜか?右大臣はクーデター用に武力を育成したかったから?

  • ・「叡意により」とは天皇の文書だから、という意味?

  • ・来たあーっ!!興福寺軍団。戦闘シーンの気配か!!
  •  兵3000に対抗はきついっしょ。しかし、予告編では戦闘の様子が無い・・・。

 そうそう、彰子役の子、「子宮頸がん診断」のCMに出てるねえ。明るい子で良かった。
                      かな?
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2024/09/09 23:46
> ユーミさん
修学旅行で行ったかどうかが思い出せません・・・。
ちゃんと勉強しておけばなあー。
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2024/09/08 21:16
> ユーミさん
ユーミさん
 今週、短時間にもかかわらず、長文かつ多岐のにわたる周辺情報までのご解説、本当にどうもありがとうございました!!
 ギリギリ、今週回の前に拝見できました。
 本日中に、今回分、書いちゃいますね!!
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2024/09/08 15:19
それは天皇の決済を経た事になりますので、それを「叡意により」と言ったのだと思います。
除目の文書は公文書ですし。

興福寺僧兵による強訴。
比叡山延暦寺と並んで「南都北嶺」と称された強大な寺社勢力が興福寺ですが、この強訴は平維衡の名と共に日本の中世(鎌倉時代の始まり1185t年~室町時代の終わり1573年とされます)の萌芽を感じさせます。
今回の強訴は、大和の国司源頼親(大和源氏の祖、源満仲の子で源頼光の弟)との所領争いが原因。
大和は後の信長・秀吉・家康の時代まで魔境ですが、その始まりでしょうか。
興福寺は頼親を訴えていますが頼親も興福寺を訴えており(興福寺側の報復があったので)、結構泥沼の状況です。
ところで、源頼親という人は清少納言の兄を殺害する指示を出したりしていて、道長が御堂関白記に「殺人の上手」と記した様な人物。最終的には土佐に配流されますが、それは道長死後の事となります。


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2024/09/08 14:48
しています。
ただ妻が明子女王の妹だからか、わりとすぐに許された様ですが、左馬頭(さまのかみ)から出世は出来ていません。

左衛門の内侍は紫式部に「日本紀の局」という綽名(当然悪い意味)を付け、馬中将の君は紫式部と一緒に牛車に乗る事を嫌がった、という逸話があります。いずれも紫式部日記に書かれている事ですので多分事実でしょう。

公任と斉信がまひろの局を訪ねた時の彼らの会話も面白かったです。
女性のプライドを傷つけたら一生根に持たれますぞ、世の殿方たち…と思ってしまったシーンです。

平維衡は伊勢で地盤を固めた、伊勢平氏の祖または伊勢平氏中興の祖と言われている人物です。この人の五代後の子孫が平清盛になります。
同族の平致頼(たいらのむねより)との争いは有名で、ドラマで道長が問題にしたのもこの点ですね。
ちなみに、除目で伊勢守について協議されていたのは、前任の伊勢守(藤原為度)が辞職したため急遽後任を決める必要があったからです。
その前任者は、後任が誰になっても良いが平維衡だけは駄目だ、と念押ししていたらしいので、道長はその意見を尊重したとも言えます。
平維衡が右大臣藤原顕光の家人だったので、顕光の勢力拡大を道長が嫌ったというのが道長が反対した最大の理由だと思いますが。

空欄にしてあった筈の除目の伊勢守の欄に何時の間にか平維衡の名前が記載されていた事は、御堂関白記にも記載がある事実。誰が記入したのかは不明のまま終わっています。
ドラマの流れでは、右大臣関係者の仕業と受け取れますが、実際は背景は複雑です。
ドラマでは定子一筋の一条天皇ですが、実はこの時期顕光の娘元子を寵愛していました。ちなみに元子の前は定子の妹御匣殿(みくしげどの)を寵愛していました(定子の面影を求めたとか何とか)が、御匣殿は懐妊したものの、そのまま亡くなっています。元子への寵愛はその後。

平維衡は元子の実家である堀河院の修復を命じられ、私財を投じてこれを行っており、元子への寵愛からその父右大臣顕光との関係も悪くない(もしくは道長への権力集中を嫌った?)一条天皇は、平維衡に対しても割と好意的だったらしいです。
空欄だった筈の伊勢守の欄に何時の間にか平維衡の名が記載されていたのは、もしかしたら一条天皇の指示、という解釈も無くはない模様。真相はもはや歴史の闇の中ですが。

除目に名前が記載されてしまえば、
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2024/09/08 13:42
こんにちは^^

今回の冒頭は、出仕を始めたまひろの様子、藤壺(飛香舎)の女房達、女房の部屋である局の様子などが描かれました。
上から見下ろすカメラアングルで映された局の様子や、女房達の朝の支度の様子などが非常に興味深かったです。
局の広さから、まひろが特別待遇だった事もわかりますし。
局を一人で使っているのは、まひろと藤壺の女房を統括する宮の宣旨のみで、他は一つの局を几帳で間仕切り二人部屋にしていました。見下ろしアングルだからこその分かり易さでした。

公任と斉信から「鈍い」「問題がある」と言われている女房達ですが、大半は道長が身分重視で選んだとされる上級貴族の姫君です。
リーダー格の宮の宣旨は本名は源陟子で、道長の妻明子女王の従姪(じゅうてつ)。祖父が明子の父源高明の弟兼明親王になります。
年齢は宮の宣旨の方が上っぽいですが(NHK公式を見ると60代とありますが、これは流石に計算が合わないんですけどね)。
宰相の君は藤原道綱の娘で藤原豊子が本名。道長の姪ですね。
大納言の君(源簾子)と小少将の君(源時子)は道長の嫡妻源倫子の姪。
この四人は道長もしくはその妻たちの血縁なので、そん縁で彰子入内時の女房として選ばれたのだと思います。
数え12歳で入内する娘の為に、身分の高い女房で回りを固めようという親心だったのだろうと思いますが、身分が高い=仕事が出来る、とはいかなかったので、この選抜は裏目だった様ですが。
これらの女房達は、史実においても紫式部に対しても特にきつくは当たりません(根拠は紫式部日記)。
宮の宣旨に対しては常に気を張っていなければならなかった様ですが、年配者であり女房達のとりまとめ役なので仕方がないでしょう。
宰相の君、大納言の君、小少将(こしょうしょう)の君とは仲良くなったらしいです。

逆にあまり仲が良くなかったのは、ドラマでも嫌味で意地悪な感じだった二人の女房、左衛門の内侍(さえもんのないし)と馬中将の君(うまのちゅうじょうのきみ)です。
左衛門の内侍は本名を橘隆子(たちばなのたかこ)といい、藤原氏に押されて斜陽の橘氏の出身です。掌侍(女官の官職の一つ)らしいので、道長によって選ばれたのではなく元々は内裏の女官で藤壺に配属されたのかな? とも思いますが詳しくは不明です。
馬中将の君は藤原節子が本名で、彼女の父親は中関白家と近しく長徳の変で一時失脚




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