世界を巡る 第106回はエジプトのアスワン
- カテゴリ:レジャー/旅行
- 2024/08/23 05:43:55
アスワン(Aswan)は、エジプト南部の都市でカイロの南899km、ナイル川の東流域に位置する。
市街地は、エジプトの国家の一大事業であったアスワン・ハイ・ダムとその前に建設されたアスワンダムの間にあり、 市内には、アガサ・クリスティが『ナイルに死す』を執筆し、その舞台となったことで知られる名門ホテル「オールド・カタラクト」がある。
1年を通して太陽が輝き、乾燥していることが特徴で、暖かい気候に恵まれていて、異国的魅力にあふれる自然に囲まれており、エジプトだけでなく、世界で最も美しい冬のリゾ-ト地と言われている。
アスワンを象徴する単語は、花崗岩と砂漠とファルーカ(帆船)、そしてこれから紹介する一つの少数民族を表現する名詞である。
マルコ・ポーロの東方見聞録によれば、日本は西洋の人々からはジパングと呼ばれ、黄金で飾られた、黄金文化を持つ国と考えられていた。
このように、未知の国にユートピアを夢見るのは西洋騎馬民族の特徴であるが、実際にインカ帝国の黄金文化を発見・侵略したイスパニア人、フランシスコ・ピサロのような人も、大航海時代には沢山いた。
古代エジプトの人々も、当時はナイルの源流はアスワンにあると考えており、その更に南の国には、ジパングのような黄金の国があると信じていたのだ。
だが、その国は空想の存在ではなく、実存する国であった。
その国、エジプトとスーダンにまたがる国を、彼等は「ヌビア」(黄金)と呼んだ。(ヌビアはアスワンを象徴する最後の名詞)
ヌビア(黄金)の原産地はナイル川中流と上流のヌビア地方の砂金鉱床で、この地方の金が枯渇するまでおよそ250キロ平方メートルの土地が深さ2mまで掘られ、この膨大な残土の流出の結果として、ナイル川デルタ地帯が形成されたといわれている。(まあ、話半分としても凄いね。)
ツタンカーメンの墓から発掘された膨大な量の金細工を施した副葬品は、実はヌビア産の黄金である。
しかし、紀元前2千年頃にはヌビアの黄金は枯渇して、更にナイル上流のビシャリー金山が採掘された。(クレオパトラ時代の黄金は、ビシャリー金山産のもの)
このヌビア(黄金)のエジプト側は、その大部分が、今はアスワンハイダムの建設で生まれた人造ダム湖であるナセル湖の湖底に眠っている。
ヌビアにまつわる伝説としては、パピルスに書かれていた古代エジプト伝説「アイーダ」(ヌビアの王女アイーダ姫とエジプトの将軍ラダメスの悲恋物語)が有名で、オペラやミュージカルとして、たびたび日本でも公演されている。
この二人の愛は永遠のものとなり、二人が殺された後も時代を経た人々に転生し、出合った二人の転生者同士は、また永遠の愛に結ばれ、お互いを愛し続けるという結末となっている。
伝説の民であるヌビアだが、現在その末裔はエジプトとスーダンに住み、人口はおよそ60~70万ほどである。
人種的には、アラブ系スーダン人に近く、エチオピア人とも近縁。外見の特徴は、エジプト人より肌の色が黒く、縮れた髪の毛を持っている。
アスワンはヌビア人がその市街地の西側に居住している街である。
やはり、アイーダの末裔のその後は気になるところであり、アスワンの名物であるファルカというヨットに乗り、ナイル河を渡り、西岸にあるエレファンテネ島に住むヌビア人を訪ねた。
だが、現代のヌビア人はどうやら黄金の国の末裔ではなく、アメリカインディアンのような境遇の人々だった。彼等は政府指定の居住地を拒否し、昔からの生活の場所に近いエレファンテネ島などに住み、ファルカの船頭や観光客目当てのみやげ物売りなどで生活していた。
対岸のアスワン市街地とは格段に生活レベルが低く、民芸品やみやげ物を高い金で売りつけようとしたり、可愛い母子写真を何気なく撮ったら、お金を要求されたりもした。(もちろん、ヤクザな方が出てきそうなので、すぐ払ったけどね。)
町中はごみがいたるところに散乱して、対岸に住むアラブ系の人々に比べ、ヌビア人の経済的な生活の貧困さを象徴しているようだった。
戦争という暴力でなく、経済という暴力で奴隷的立場を継続させられているヌビアの歴史が現代も続いているようで、アイーダ姫の悲鳴が聞こえるような気がした。
アスワンハイダムはアスワンダムだけでは不十分と考えたエジプト政府の手により、1952年に計画され、1970年に建設された20世紀のピラミッドと称されるダム。
冷戦時代の東の大国ソ連の支援により建設され、国の威信を賭け10億ドルの資金で行った国家プロジェクト。
やはり、高さ111m、全長3,600mの巨大ダムの大きさは近くで見ると尋常なものではなく、このダムの背後に広がる全長500キロメートルに及ぶ人造湖ナセル湖(琵琶湖の7.5倍もの面積がある)の広大さも尋常なものではなかった。
ダム建設は功罪が混在する事業である。
長江の旅「三峡ダム」の建設でも触れたように、ダムの誕生は遺跡や文化財、自然の生態系、人々の昔からの平和な生活等を犠牲にしてのものである。
ダム建設以前の、毎年の洪水による豊穣な流出土であるシルトによる自然任せの農業から、ダム建設による灌漑用水の管理出来る近代的農業への移行で、エジプト農民の生活はどう変化したのか。
レンタル自転車屋のヌビア人の店主との話でも、自転車をこぎ疲れて休憩したナイル河のほとりで畑仕事に精を出していた老人との話でも、やはりダムを造って良かったという結論になった。
レンタル自転車屋は、今までは僅かな農地での収入で生活していたが、今はナセル湖やアスワンハイダムの観光客相手に仕事が出来、そのおかげで、子どもも大学へ入れられた。
彼はダムが出来なかったら貧しい生活のままだったろうと言い切った。
老農夫の場合はもっとはっきりしていて、ダム以前は年間2回の収穫しかなかったが、ダム以後は年間6~7回の収穫が可能になり、収穫量が格段に増えた結果、テレビやラジカセなどの電気製品を買ったり、農作業用トラクターなども揃えることが出来、孫にいたってはカイロの市民と同じお洒落をして、自家用車でガールフレンドと毎晩遊んで困っているとまで言っていた。
アスワンハイダムの建設は、この国の近代化を促進し、豊かな消費社会への道を、この国の人々にもたらした。
反面、古代からの自然に逆らわない暮らし、毎年繰り返される季節に合わせての循環型エコ社会は崩壊し、都会と農村の差はほとんど無くなった。
ピラミッドやスフィンクスや連綿と流れる大河ナイルや夜空に広がる永劫の銀河系、エジプトの農民は、それら不変なものと共に、古代そのままの生活を連綿とし続けていくはずだった。
アマゾンの未開民族の生活や中国少数民族の生活に触れ、都市化された現代社会に無い良さを発見して来た僕にとって、ナイルの民の都市化された姿は、単純には喜べない気がした。
次回はナイル川を遡って、エジプトの南に位置するスーダンを紹介します。
引き続き気楽に遊びに来てください。( ^)o(^ )