長い戦争が終わって、長い時が過ぎました
- カテゴリ:日記
- 2024/08/18 10:07:34
どこの階かは存じませんが、すれ違う時には必ず鳥打帽を片手で持ち上げて挨拶なさるご老人がいらっしゃいました。
耳が遠いとの事でマンション理事会には奥様が出席なさっていました。
ある時、同じマンションの男の方と親しく話していられる、その話の内容を漏れ聞く機会がありました。
その方は、少年兵として激戦地の南方のある島に行かれたそうです。
内地との連絡の最後の郵便を運ぶ機に、みな家族への遺書を頼んだそうです。でも、一人だけなら乗せることができると言われて、部隊長が「こいつはまだ子供だから、この兵を乗せて帰ってもらえないか」とパイロットに頼み、彼は仲間と別れて内地に帰還できたそうです。
その後部隊長以下全員が玉砕したそうです。
まくり上げた下肢にはえぐられた生々しい戦傷の跡が残っていました。
最近お見掛けしません。
だいぶお体も弱ってきているのではと、思います。
二つにまとめてのお返事です
そっか、親の年と比べてみてなかったわ。私の母が大正15年(昭和元年)生まれだからそれよりも年下ですね。母は恋愛の相手が海軍兵学校出身の方だったし(結婚できなかった)母の友人の恋人は「聞けわだつみの声」に遺書を残した方だったし、それよりもうんと下の世代で、でも戦地に赴かれた方だったんだわ
母は認知症と老衰で数年前に死にましたけど。この方は体が弱りつつあっても頭や感情はとてもしっかりし照らして、足の不自由な奥様の代わりにスーパーに買い物に出かけるのをお見掛けしてました。
こうやって戦争のことを知っている世代がどんどんと消えていくのですね
(真面目力が続かない、オレンジブラン)
義父や伯母と近い世代です。
伯母は昨年亡くなっていますから、その紳士は穏やかに長生きなさっているのですね。
内地との連絡便は船か飛行機か。どちらにしても当時、激戦区から兵隊さんを連れ帰るとか、通常はしてはいけなかったのではないかと想像するのですが。
しかしヨソでも若い兵を送り返した話は少し聞くので、連絡便の独断ではなく、上から指令が降りていたのかもしれないな。って思います。
家族と手紙をやりとりするのも禁じてはいなかった。どこにいるとか書いてはいけない。(そりゃそうだ連絡便が拿捕されたら暗号でもない手紙 筒抜けだ)検閲だらけの手紙でも、、(その「検閲」も、戦争当時の資料で見たら、結構 元の文が丸々読めちゃうんだけど~?!!な物でしたし)
家族と通信させることで、「家族を守るため」と男性たちを死地に向かわせていたわけですから、温情なのか残酷なのか判断に悩むところてす。
8月20日火曜日 午後3時~3時半にお茶会の時間を変更します。
・・・・・・
災害時の停電に備え、実家虹小屋の屋根に太陽光発電設備を取り付ける
工事を始めることにしました。
今日、電気屋さんが来てくれたのですが、
明日午後1時半に屋根に上って、採寸することになったため
明日のお茶会の開始時間を3時に変更します。
私も戦後に生まれました。
小学校の先生が空襲の体験談を話してくださり、戦争ってのはかっこいいものじゃないんだよって教えてくださいました。
こうやって伝承することも大事なのだと思ってます。
ずっと戦友のこと、命を救ってくれた部隊長のことを、思って
戦後の混乱から、のちの日本の繁栄を生き抜いていらしたんですね。
記憶して伝えることが、私の使命なのかと。
父も母のなくなりましたが
戦争を知りません
その後の喧騒の中育ったそうですが