世界を巡る 第103回はエジプトアレクサンドリア
- カテゴリ:レジャー/旅行
- 2024/08/18 05:17:40
偉大な古代文明を築いたエジプトは、たった1回ではその全容を把握できませんので、以前釣り師が書いた「インターネットで旅するナイル川」のブログから、ナイル川に沿って、アレクサンドリア、カイロ、ルクソール、アスワンの4回に分けて紹介します。(k)
アレクサンドリアは、カイロに次ぐエジプト第2の都市である。
現地語であるアラビア語ではアル=イスカンダリーヤ、意味は「アレクサンドロス(アラビア語でイスカンダル)の町」である。
マケドニア王アレクサンドロス大王は東方遠征の途上で、オリエントの各地に自分の名を付けた都市を建設したが、アレクサンドリア(Alexandria)はそれらの都市の第1号である。
「地中海の花嫁」とも呼ばれ、街中に英語の看板も多く、多くの文化的な要素を合わせ持つ、独特かつ開放的なコスモポリタン都市であり、国際観光・商業都市でもある。
アレクサンドリアの観光場所は、セシルホテル横のサードザグルール広場を中心として、東側(カイトベイ、ポンペイの柱、カタコンベ)と西側(国立博物館、グレコローマン博物館、アレクサンドリア図書館)の大きく2つの地域に分けられるが、東西半日ずつ、併せて1日で見て回れる。
花嫁の町では、まずアレクサンドリア図書館へ行った。
2002年にオープンしたアレクサンドリア図書館は、紀元前3世紀にプトレマイオス1世がこの地に開いたというアレクサンドリア図書館(紀元前43年、シーザーのアレクサンドリア攻撃により焼失)を現代に復活させたもので、ユネスコの協力を得て、世界中から集められた二億五千万ドル(約三百億円)の資金と十五年の歳月を通じ建設された。
ここで、アレクサンダーやその4人の勇将の1人プトレマイオス(彼はアレクサンダーの遺体を一夜にしてバビロンからアレクサンドリアまで運び、大王の死後はエジプトを支配し、プトレマイオス王朝の祖となった。アレクサンダーの遺体は現在も見つかってはいないが、今もアレクサンドリアのどこかにあると信じられており、学者達の中には遺体探しに学者生命を賭けている者もおり、ガセネタでの遺体発見のニュースが3年に1回くらいは新聞を賑わしている。)やプトレマイオス王朝最後の王となったクレオパトラ7世(彼女はエジプト人ではなくギリシャの血を受け継ぐギリシャ人です。)そしてその愛人であるローマの英雄シーザー(カエサル)等を偲び、半日過ごした。
ナイル河口のこの位置にアレクサンドリアはあり、そこのどこかにアレクサンダーの遺体は 眠っている。
プトレマイオスは文化に造詣が深く、当時の学者や芸術家を集めてムセイオン(自然科学の一大研究機関)をポンペイの柱のある場所に作り、ギリシャで食い詰めた学者や芸術家や詩人といった類の人たちを集め、彼等の生活のすべての面倒を見た。
このムセイオン(知の殿堂と言う意味)に集まった学者達の中から、ユークリットやアルキメデスなどが誕生した。
午後からサードザグルール広場からマスル駅まで歩き、かってムセイオンの建っていたポンペイの柱の立つ小高い丘へ向った。
ここには高さ30mのアフリカで一番長い花崗岩の柱が1本立っている。かたわらには小さなスフィンクス。
ポンペイの柱という名は、シーザーに滅ぼされたポンペイウスの首が柱頭にのっていたという怪奇伝説によるもの。
ポンペイの柱からカタコンベへはゆっくり歩いて7、8分の距離。
そこからカイトベイへはタクシーを利用した。
この要塞は15世紀に造られたもので、元々この場所は世界の七不思議のひとつファロスの灯台があったことで有名、これは紀元前3世紀に造られた高さ135mの灯台だった。
エジプト、アレクサンドリア港の湾口、ファロス島に立ち最上層では大理石の反射板の前で火が燃やされ、航路の目印として、夜間は数10Km先からでも見えたと言われている。
灯台の高さは、文献ごとにまちまちで、60mとも180mとも言われており、その構造や燃料の種類、管理の方法など、不明な点ばかりで、古代世界の七不思議の一つに数えられている。
エジプト文明の最初の町アレクサンドリアだが、エジプト文明は謎に満ちた文明。
アレクサンドリアに近いナイル河口の町ロゼッタ (別名ラシード)はロゼッタストーンで有名な町。
英語でロゼッタ・ストーンというと、解読することや翻訳、難問などの意味となる。
ロゼッタ・ストーンは1799年7月15日、ナポレオン・ボナパルトがエジプト遠征を行った際、フランス軍のピエール=フランソワ・ブシャール大尉によってエジプトの港湾都市ロゼッタで発見された。
この岩に書かれた文字を解読したのが今回のヒーロー、ジャン=フランソワ・シャンポリオンである。
1799年8月,ナポレオンがエジプトを侵略したとき,ナイル川河口のロゼッタ村にある要塞の工事現場から,石碑の一部と思われる玄武岩が掘りだされた。発見地の名からロゼッタストーンと命名されたこの石は,高さ114cm,幅72cm,重さ762kg。黒く輝く岩肌には3層にわかれて異なる文字が刻まれていた。
ロゼッタストーンの碑文は3層に分かれ、上から「ヒエログリフ」、「デモティック」および「ギリシャ文字」の順に文字が刻まれており、最下段の文字の内容は「紀元前196年のエジプト王,プトレマイオス5世の戴冠式の知らせ」で,すぐに解読出来た。
だが、残りの「ヒエログリフ」、「デモティック」の解読にはこの古代文字の謎を解くには,20年の歳月とひとりの天才を待たねばならなかった。
天才の名は、グルーノーブル大学(フランス)の若き教授ジャン・フランソワ・シャンポリオン(1790~1832)。
シャンポリオンは,まず 音の解読から始めた。 ヒエログリフにはカルトゥーシュという楕円の枠で文字を囲むことがあるが,シャンポリオンはこれは王の名前だと考えた。そしてロゼッタストーンからプトレマイオス王のカルトゥーシュを,さらにフィラエ島で発見されたオベリスク(柱)から,女王クレオパトラのカルトゥーシュを見つけだした。
この2つをくらべ,シャンポリオンはPTOLMIISとKLIOPADRAの文字のならび方からP,O ,L,Iの音を表すヒエログリフを見つけだした。
この大発見をきっかけに,シャンポリオンはついにヒエログリフを解読する。ときに1922年,シャンポリオンは32歳だった。
この結果を手がかりに、他の古代文字文書も続々と解読されるきっかけとなった。
(ロゼッタ・ストーンは1802年以降、イギリスのロンドンにある大英博物館で展示されている。)
シャンポリオンは,ヒエログリフ解読の後も貴重な研究を続け,1831年にコレージュ・ド・フランスにエジプト学講座を開設するが,翌年,42歳の若さで世を去った。
次回も偉大な古代文明を築いたエジプトを紹介します。
引き続き気楽に遊びに来てください。( ^)o(^ )