『光る君へ 第29回』やっと見終わったあーっ!
- カテゴリ:テレビ
- 2024/07/29 21:44:54
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我が北海道日本ハムファイターズ大勝利の宴でどんちゃん騒ぎの日曜日!!オリンピックも割り込んできて、24時間が全然足りねえーっ。
では「光る君へ 第29回」の考察します。
- ・この回振り返ると蔵之介のアットホーム場面で前半盛り上げての、なんと今回での退場とは・・・。
- ・「ウイカ」と「蔵之介の妾・元越前国国主の娘」だと、どちらが格が上なんだろう?なぜ、まひろがあそこまでへりくだらなきゃならないのか?
- ・しかしウイカの「道長の一連の所業のまとめ方」は、あれが日本史上の正論だったんじゃない?
- ・蔵之介の没の理由を隠すのは?疫病?妾だから?
・為時辞退!かっこいい!と思ったら、撤回・・・。史実はすんなり受け入れなんだろうか?
・各所での倫子との小競り合いはめんどいーー。将来不仲離婚の伏線ならしょうがないが・・・。
・「貝覆」って、ハマグリ合わせるやつ?
・立て続け、国母吉田羊退場!!
伊周の呪詛は何枚も「道長」なのに?遠大な計画だから?
でも、吉田羊遺言は伊周昇進?呪いの対象が道長と感じてそれを封じるため?
・こどもふたりの「踊り」の優劣は観てては全くわからず。この逸話は嫁ふたりの争いで「倫子が負けたこと」が後に尾を引くってことか?
・「枕草子」のヒットはこれからか!「源氏物語」は同時期に対抗は無い??
・予告編で燃えたのは、源氏物語の草稿か?
ただでさえ、冒頭の出演者クレジットが少なくて、最近追加も無いのに、今週キーパーソンふたりも退場・・・。
まだまだ凄いひと、出て来るのかなあー??残り4か月か・・・。
かな?
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少しづつ評判が広まり、道長の耳に届いて彰子に仕える様になるのが1005年。
道長が後援となって本格的な執筆が始まるのは、それ以降と思われます。
枕草子より世に出るのが遅いですから、同時期に対抗馬となるのは不可能です。
ただ倫子の子である田鶴君(たづぎみ/後の頼通)も四十の賀のリハーサルが行われた際に童舞の出来を褒められて一条天皇から衣を下賜されているんですよね。ドラマでは描かれてませんけど。
一条天皇としては、道長の二人の子のどちらにも配慮を見せている訳ですが、本番の舞で評価された明子女王の子巌君の方が、舞の出来は良かったのかもしれません。
ドラマでも、田鶴君の「蘭陵王」より巌君の「納蘇利(なそり)」の方が細部迄決まっていた様に見えました。カメラワークの為せる業かもしれませんが。
ちなみに、ここでの舞の優劣がその後に尾を引くかどうかですが、田鶴君/後の頼通は摂政・関白になりますが、巌君/頼宗は従一位・右大臣にまでなりますが頼通には及びません。
道長は倫子との子達と明子女王との子達を明確に区別し、倫子との子達の方を優遇しました。
妻たちのマウント合戦が無かった、というのは、そもそも妻たちがおそらく四十の賀に出席していないだろうからです。
開催されたのが土御門第(つちみかどてい)ですので、倫子は陰から見守っていたと思われますが(そもそも土御門第は父源雅信から倫子が相続している彼女の家。道長はあくまでも婿)、明子女王は彼女の邸宅である高松殿から土御門第まで出向いてはいない筈。
ドラマでの妻たちのマウント合戦は、ドラマオリジナルの展開ですね。
「貝覆」は蛤の貝殻が一対しか嵌り合わない特性を利用した、貴族間の優美な遊びです。貝合わせとも言いますね。
180対または360対の蛤を使用したそうです。
女院藤原詮子も亡くなってしまいましたね。
ドラマでは四十の賀で容体が急変していましたが、史実では四十の賀では小康状態だったらしいです。
倒れたのはその後で、亡くなったのは藤原行成の邸です。
何故土御門第ではなく行成の邸なのか、ですが、多分治療の一環の方違えで行成の邸に滞在したのだと思われます。
ドラマでは、道長に看取らせる為には土御門第でなければ都合が悪かったのでしょうね。
詮子が伊周の復位を願ったのは史実です。
ドラマの詮子が伊周の呪詛を封じようとしたのかどうかは、視聴者の受け取り次第でしょうか。
弟を守る為、自身で呪詛を一身に背負ったと見えなくはなかったです。
ただ、伊周の素人の生兵法としか思えない呪詛にどの程度効果があるものか、と疑問です。
藤原宣孝が亡くなる時期は知っていたので、前回に定子が亡くなったので今回辺りになるとは予想の範疇でしたが、いざ亡くなってしまうとやはり残念です。
存在感が大きかったですからね。
宣孝の死因は、一応その頃に流行っていた疫病の為、とされてはいますが、どのような状況で亡くなったのかは不明です。
今ドラマの宣孝は『睡眠時無呼吸症候群』でしたので、就寝後そのまま亡くなってしまった可能性がある様に思えます。
朝、起きてこないので様子を見に行ったら亡くなっていた、という感じだったのでは?
そのため、どの様に亡くなったのかは誰にも分からず、伝えようが無かったのだろう、と解釈しております。
別に妾妻だから、という理由では無いと思います。
紫式部と清少納言には、身分の差はほぼ無いと思われます。
どちらも学者貴族の娘で、父親の官位も同じくらい。夫の官位は清少納言の夫は従四位上陸奥守や正四位下摂津守になっているので、式部の夫宣孝正五位下山城守兼右衛門権佐より上位にはなりますが、本人たちはどちらも無位無官です。
ドラマで、まひろがききょうに謙っている様に見えるのは、単に両者の気性の差でしかないと思われます。
ききょうが挙げた、道長の一連の所業は史実通りではあります。
定子サイドの人間であるききょうこと清少納言からは、道長こそが定子の寿命を縮めた様に見えたことでしょう。
道長サイドからすれば、隙を作った政敵を潰すのは当然の流れなんですよね。
父親が早死にしたり、兄弟が失脚したり、と定子が不運だったのは確かですが、彼女の最大の悪手は衝動的に出家した事だと個人的には思います。
これさえなければ、状況はもう少しマシなものだったのでは、と思えるんですよね。
というか、彼女の不運の大半は自分で引き寄せたようにしか見えません。
道長と倫子は、離婚する事はありません。
道長の出世は倫子のバックアップあってこそ、という点も大きいので、道長は終生倫子を尊重し大切にしました。
まぁ、光源氏のモデルの一人と言われるだけあって、嫡妻の倫子の他に妾妻が明子女王以下何人もいましたけど。
詮子の四十の賀における、道長の妻二人のマウント合戦は史実ではありません。
それぞれの子供の童舞(わらわまい)があったのは史実で、明子女王の子厳君(いわぎみ/後の頼宗)が見事な舞を見せて、彼の舞の師匠が従五位下の