Nicotto Town



顎と鰐と鰻

全ての人と分かり合うことなんかできない


ということをわかったのはかなり大人になってからです。
より正確に言えば、私がすべての人と分かり合えるかのような前提でやってきたと気づいたのはかなり大人になってからです。
思えば人間てかなり大したもの。言葉なんかを作ったおかげで、さも、人と人とが分かり合えるような幻想を何千年と積み上げてきたんです。だから、本当のことを言えば私は少し疑っています。世の中の人たちもひょっとしたらこの誤解を持っているんじゃないかって。だって、「対立」なんていういことも、お互いがおんなじ知識の中で違う意見を持っているかのように見える言葉でしょう。本当は全然、ちがうのにね。使っている筋肉やあごの形や、概念や魂が違うのに、言葉という翻訳機のせいで、違っているのがあごの形や筋肉であるってことに気付かないのです。

 …炎天下の8月、夏休みの誰もいない小学校の校庭の中央の演題で、こういうことを教頭のA子先生の口が言うのを私はただただ「はー」と思いながら見ていました。

 言葉の中身があまりにもよくわからないのでとりあえず口の動きを見ていました。言葉の中身と比べると口の動きや筋肉の動きは実に明白であるということだけはわかりました。
 
 A子先生の演説はまだまだ続くのですが、ご存じのように、何を話しているかわからない声をひたすら聴くというのはとてもとてもイライラするのです。
 私はとりあえず、聞き取れたこの最初の部分だけをもう一回頭の中でリピートしてみました。
 たしかに「あごの違い」とは言いえて妙で、A子先生のあごの形は炎天下の中蜃気楼のように歪んで見えました。顔は般若のようで、怒りのように歪んでいるせいで帰って単純化された記号のようになっていました。…「顎」って何かの隠語でしょうか?ago…アゴー・・・過去?

 仮に、私が、たまたま夏休み1日目に、学校の校庭でB子ちゃんと待ち合わせて砂場で遊ぶ約束をしていた小学生の私が、A子先生の過去だと想像してみました。嫌な想像ですが、そうするとA子先生は過去の自分の前でペラペラしゃべりながら、過去の自分に呆れられているのであって、それってちょっと逆立ちしたみたいに風景が変わって見えてこの情景が面白く思えます。私は顎を触ります。私のあごは大人になったらA子先生みたいにひしゃげるのでしょう。その時私はきっと訳の分からないことをしゃべり倒すのでしょう。しょうがない。あごの形が違うことが対立だっていうんだから。その時の私は別の私なのだから、私の言っていることは全く訳が分からないんでしょう。

「だから皆さん、土用の丑の日にはウナギを食べるのが今も続いているのです」
気が付くとA子先生はそう締めくくり、お辞儀をしました。
 ぼーっとするうちに、話はどうやらとても凡庸な形に帰結したようです。土用の丑の日。セレモニーのあいさつ集に出てきそうな話にどうして落ち着いたのか、その間の話があまりにブラックボックスすぎて私は茫然となりました。

 A子先生はそのまま壇上から降り、静かに校舎に戻っていきました。
 思えば、この出来事ってとても変ですよね。あまりにも変なので、私は自分のあごを触ろうと手を伸ばしました。でも触れないんです。…ね、馬鹿みたいでしょ。私、なんで「自分のあごに触れる」なんて思ったのだろう。そんなの変ですよね。そんなの「じぶんの心臓に触れない」っていうのとおんなじくらいナンセンスです。
 それと入れ違いか、ちょっと時間がたったか、待ち合わせていたB子ちゃんがやってきました。
 「ねぇねぇ、Bちゃん、私のあご触って」B子ちゃんは私の肘を触ってにっこりしました。
 私はその時、きっと世の中の誰とも分かり合うことができないのだろうとこども心に思ったことを覚えています。

 ところで、この話ってどこまでが夢だったのでしょう。…わからないんですよね。とてもよく覚えているのですけど、だってちょっと変でしょこの話。なんで八月に土用の丑の日の話なんてしているんだろう?






#覚えている夢の中の出来事は?




Copyright © 2024 SMILE-LAB Co., Ltd. All Rights Reserved.