ドミの人生
- カテゴリ:自作小説
- 2024/06/14 10:44:17
これは、おれが先週末に聞いた話だ。
“ドミ”という名の女がいた。
1952年、8月、金曜日の午後2時22分、ナポリの街中にあるカフェでドミは自分のポケットからウイスキーの小瓶を取り出して、コーヒーにたっぷりと入れるとグイとそれを煽った。
歳のころは20代後半だろうか。
ドミはやけっぱちであり、退廃的であった。
それはドミの生い立ちに関係しているが、ここではそこに言及するのはやめておこう。とても長く込み入ったストーリーになるからだ。
ドミはカフェのトイレへ行くと、裏口から店を出て、そのまま金を払わずに裏通りを歩いていった。
海辺へ着くと、ドミは着ていた安物のワンピースを脱ぐと下着のまま海へ入った。
ドミは泳ぐともなく、海面に浮かんだ。
ドミは痩せていたが、海に浮かぶのは子供の頃から得意で好きだった。
アルコールとドラッグのためにカサカサになった皮膚に海水が染み渡るようで、気持ちがよかった。
Yo! ドミじゃねえか!
男の声がして見ると、防波堤の上に青と白のボーダーのシャツを着た男が立っていた。
マニカスだ。
マニカスは、ドミが娼婦をしていた頃の元締めのギャングの下っぱで、ゲスないけすかない男だった。
おい、ドミ、久しぶりにヤろうぜ。上がってこいよ!
マニカスは偉そうな口調でそう言った。
あんたなんかとヤるくらいなら、死んだ方がマシ。
失せろ。
ドミはそう言うと、水に潜って、潜水を始めた。
あの頃、とても寂しくて誰にでも体を許していた。
ギャング連中のほとんどとヤったし、マニカスともヤった。
なんてバカだったんだろう。
マニカスは防波堤の上で、ドミなんかの自分よりも下級な女にそんな口をきかれたことに腹を立てて、何やらわめいていたが、その声は海の中にいるドミにはすでに届いていなかった。
ドミは深く潜り、海底の砂浜に着くと、そこに体を横たえた。
少し苦しかったけど、もう死んでもいいと思っていた。
上を見ると、ナポリの夏の日の光でギラギラと海面は光り輝いている。
私の人生は何だったのだろう?
そんなふうに思いながらドミは海底の砂浜に沿って泳いだ。
いつまでもどこまでも泳げるような気がした。
ドミの体の周りには小魚たちが幼い興味を持ってまとわりついて、遠くに1匹大きな魚が泳いでいる影も見えた。
サメだろうか。
ドミは海底が岩でゴロゴロしてる辺りまで泳いでいくと、海面に顔を出した。
砂浜から30メートルは泳いだだろうか。
見ると、防波堤にはもうマニカスの姿はなかった。
ドミはそのまま水平線に向かって泳ぎ続けることにした。
今度は、海面をクロールで泳いだ。
10分も泳いでいると、体が重く疲れてきた。
もう、海の底は深くなっていて、海水浴で行ける制限範囲はとっくに超えている。
それでもドミは泳ぎ続けた。
泳ぐことをやめたくなかった。
ドミはまるでトライアスロンの選手みたいに規則正しく呼吸しながら、自分の体の苦しさをコントロールして、泳ぎ続けた。
砂浜から見ると、もうドミは小さな点になっていて、水平線にたどり着きそうなところまで行ってる。
むろん、このナポリの暑さは強烈で夏に外で遊ぶのは危険なため砂浜には誰もおらず、ドミのことを見てる人など当然誰もいなかった。
ドミはナポリ湾を抜けてティレニア海まで泳いでいっていた。
ドミは懸命に泳ぎ続けていた。
もう海水は冷たく、重く、ドミの体を辛辣に叩きのめそうとしていた。
体は軋み始め、もう何回も塩っ辛い海水を飲んでしまっていた。それでもドミは自分を抑制し、どこまでも泳いていく。
サルディーニャ島を過ぎ、ジブラルタルを抜けて、ついに大海へ出た。
北大西洋だ。
波は高みを増し、ドミの体は上下に揺さぶられ、波に飲まれそうになることもあった。
ドミは精神を集中させ、波の動きを読みながら、何度も大波の下をくぐってやり過ごした。
しかし、ドミの体はもうほとんど感覚を失って、あまり動かなくなってきていた。
やがてドミの体は限界を迎えて、手足は痺れ、ドミは海の底へ沈んでいった。
ドミはそこで体の力を抜いて、海に身を任せた。
自分の命を海に預けたのだ。
ポルトガルから西に1000km先、大西洋に浮かぶポンダ・デルカーダ島の砂浜で、夕暮れの中、健康な大学生たち男女6人がビーチバレーをして楽しんでいた。
一人の青年が気づく。
砂浜に女が一人、打ち上げられて、うつ伏せに倒れていた。
青年たちは急いで女を島の診療所に運んでいった。
ドクターは女は完全に心肺停止で死亡していると診断した。
ドクターは女を翌日、安置所に運ぶつもりで、その夜は女をベッドに寝せて布を顔にかぶせて、帰宅した。
その夜、ドミは診療所のベッドから起き上がり、外へ出て、静かに月を見ていた。
ここがどこかもわからない。
自分が海を泳いでいたことはわかるけど、どこに辿り着いたのか、自分がどうなってしまったのかもわかっていなかった。
でも、ただ、ドミは月を見て、涙を流していた。
ドミの流した人生で初めての涙だった。
翌朝、ドミは診療所に出勤してきたドクターに礼を言ってから、診療所を出た。
ドクターは、朝来たら、昨日死んでいたはずの女が起きているから、ひっくり返りそうになるほどに心底驚き、大きな病院での精密検査と入院を勧めたが、ドミは丁寧に断った。
それからドミは、その小さな島で結婚をして、子供もたくさん産んだ。
それからドミはおばあちゃんになって、97歳まで生き、自分の死期を悟ると、孫たちを集めてこの話を聞かせたんだ。
おれはニューヨークのスポーツジムでたまたま知り合った女性から、この話を聞いた。
彼女はポンダ・デルカーダ島出身で、ドミの孫だと言った。
肌の色は美しい褐色で、とても美人で、ニューヨークの大学院で考古学を専攻しているらしい。
彼女は、「これがおばあちゃんよ。」と、言って、おれに右肩に入ったマーメイドのタトゥーを見せてくれたんだ。