とろろ蕎麦③
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- 2024/04/07 06:11:54
何十年もの間、とろろ蕎麦はいつも俺の隣にいた。
「隣のトロロ」を誰よりも愛してきた僕はとろろ蕎麦に対してベストの姿勢で向き合えてきたと思っていた。
でも、それは誤りだった。
誤っていたのだけれど。
その誤りは、俺の才能や能力、努力とはまったく関係ない、手を伸ばしても決して届くことのない、別次元の「何か」によって正されたのです。
正してくれたのは、居酒屋の店員さんだろうか?松本を教えてくれたTか?
言うなれば、そのすべてであり、同時にどれでもない。
それは、時代や人によって呼び方は変わるが、
「
神」
「福音」
「仏
」
「他力
」
と呼ばれるものであり、人の力では決して及ぶことのない、高次元の「何か」なのです。
旧約聖書の「ヨブ記」では、敬虔な神の信者であるヨブの信仰心を試すため、神・ヤハウェは悪魔と取引をした。
ヨブの家族と財産を奪い、病魔に襲わせ、さらには友人たちに「お前に災難が起きるのは信仰心が足りないからだ」と鞭打たせた。
そして最後、ボロボロの状態になったヨブはヤハウェと対面し、こうたずねる。
「神は、どうして私にこんなひどい仕打ちをするのですか?」
するとヤハウェは答える。
「お前は、この宇宙のすべての理(ことわり)を知っているわけではないだろう」
そしてその後、唐突に、ヨブはヤハウェによって災難が起きる以前の状態よりも大きな恵みを与えられることになるのだが、
人類最古の知恵文学と呼ばれる「ヨブ記」を最初に読んだとき、このやりとりはまったく意味が分からなかった。
ヤハウェの説明に一切納得がいかず、怒りすら覚えた。でも、松本でとろろ蕎麦を食べた、今なら分かる。
この世界には、人間の能力や理屈、人間が考える「原因と結果」では決してたどりつけない「何か」があり、その「何か」は、いつも、自分にとって都合の良いものとして現れるわけではないけれど、
その「何か」の存在を確信するということは、今は苦しいかもしれないが、先行き不透明で、自分の将来に大きな不安を感じているかもしれないが…
苦しみの先に、またその先に、自分の力では決してたどりつけない「良きこと」が待っている可能性を確信すること。
そして、俺ははっきりと感じた。
ざるにかけたとろろを蕎麦と絡めてつゆに入れ、口に含んで飲み込んだとき、その美味しさの向こう側に、「何か」が存在していることを。
だって、
俺ですら――ここでは、あえて「一刻ですら」という言葉を使わせていただきたい――
一刻ですら、
朝、目が覚めた瞬間から、何か新しいことはないか、今までと違った楽しみ方はないか、そんなことを四六時中、365日、何十年も、ずっとずっとずっと考え続けてきた一刻ですら、一刻をもってしても、一刻にもかかわらず、一刻大先生でも、
とろろを先にざる蕎麦にかけることを思いつかなかったんだ!!!!!!
とろろを先にざる蕎麦にかけることを思いつかなかったんだよ!!!!!!
だから、俺は思った。
松本の地で、思ったんだ。
生きよう、と。
生き続けようと。
生きていけば、生きていさえすれば、
自分の才能や努力とはまったく関係ないところから、
この世界の隠された、とてつもない素晴らしさが
ある日、突然、
目の前に差し出されるかもしれないのだから。
魔法の言葉はあっちにも書いてありますw
って名前がビレッジに…(゜∀。)
ここでポケコロの名前を呼ばれるようになるとはw
縦軸と横軸…点と線みたいな感じですかね?
アドバイスありがとうございますw
ごめんなさい。忙しくて返事遅れました(^人^)
そそ、日々生きているとですね〜何かしら変化があるんですよ。例え、何気ない散歩中でも、あら?この前こんな落書きあったかしら?とか、その変化を見つけるだけでも大分違いますね。
世の中を縦軸に見るんです。
難しいかなww
えーと、例えば飼い猫がいたとしましょう。
昨日の猫体と今日の猫体を比べてみるんです。
結構違うと思いますよw
えーと、横軸というのは他の猫を比較するって意味かな?書いてて自分でも分からなくなってきたw
ようは過去と現在を見比べてみる。
現在だけで見比べない。
あー何書いてるか分かんないから、読み飛ばしてwww
消化試合みたいに生きるようになって、なんで生きてるんだろと思うことが増えてきました。でも「この世界の隠された、とてつもない素晴らしさ」に出会うためにも頑張って生きようと思えました(´-`).。oO