窓の外は夕暮れで街がオレンジ色に染まって美しい。
サイドテーブルの時計を見ると、午後5時24分だった。
日中に眠って夢を見たのは初めてのことだった。
おれは恐ろしい夢から戻って来れたことに心底ほっとしていた。
自分でもはっきりとわかるほど、心臓の鼓動が聞こえた。
ベッドの横に置いてあるサイドテーブルの水差しからコップに水を注いで飲む。
そして、しばらく気持ちを落ち着けるために呼吸を繰り返した。
少しづつ、心臓の鼓動はペースを落ち着かせていった。

気持ちが落ち着くと、昼食も食べていないので腹が減っていることに気づいた。
おれは夢の恐怖で怯えている自分の気持ちを変えたくて、久しぶりに街へ出て遅い昼食を食べることにした。



ホテルから出てメインストリートまで行こうと思ったが、メインストリートの手前に小さなイタリアンレストランがあるのを見つけた。
朝のランニングとスポーツクラブに行く以外はほとんど出歩いていなかったので、知らなかった。
入ってみると、4テーブルだけのこじんまりとしたレストランだが、ほどよくすっきりとした心地の良い雰囲気だった。
おれはアサリのペンネとタコサラダ、白のグラスワインも頼んだ。
他に客はおらず、おれは料理を待ってる間、ぼんやりと夢のことを考えていた。
恐ろしい夢だった。
あんなに激しく暴力的な嵐は現実の人生では一度も体験したことがなかった。
しかし、最後に感じたあの熊の穴ぐらの中での安息は不思議なものだった。
子供の頃、押し入れで秘密基地を作って、身を潜めて遊んでいた時の安息感と似ていた。

これもベルナルドが言ってたおれの心の方向なのだろうか？
おれの心は、どのように、どこへ向かっているのだろう。

ウェイターが料理を持ってくる。
アサリのペンネもタコサラダも、白ワインも、どれもとても美味しく、おれは久しぶりに食べることで満たされた気持ちになって、自分が現実にいることの安心感を感じていた。

ホテルへ戻り、フロントを通る時にはやはりベルナルドはいなくて、今日はベッツィという女性が担当していた。
おれはベッツィにベルナルドは明日いるか聞くと、明日は休みということだった。何か伝言がありますか？と聞かれたが、いや、いないなら大丈夫だ。ありがとう。と答えた。
部屋に戻ってシャワーを浴びる。
熱いシャワーだ。
おれはシャワーの中で目を瞑る。
疲れている。
シャワーの音だけがおれの感覚とリンクしていく。
頭の先から足の先までゆっくり温まってゆく。

はじめ、妻の顔が浮かんできた。
妻の名前は、アイダ、４１歳、趣味は家庭菜園で最近、ロッククライミングもはじめた。
明るい性格でいつも笑顔でいることを心がけている。夫婦喧嘩をしたことは一度も無いし、いつも親切でいてくれる。
イーストハンプトンに越して、カフェをオープンしてからは、いつも忙しい中でも、カフェの経営も家庭のことも、子供たちのことも、懸命に取り組んでいて、それが彼女をますます美しくさせていたし、本当に幸せそうだった。
少なくとも、おれがいなくなる前までは。。

そして、二人の子供たち。
7歳の娘は、イザベル、小学校の読書クラブに入っていて、町のバレエクラスにも通っている。物静かな女の子で繊細なところがあるが、芯は強い子だ。
夢はバレエダンサーか、小説家らしい。
5歳の息子はセオ、忍者タートルズが好きで部屋にはおもちゃがたくさんある。
活発な男の子だが、泣き虫だ。
最近、イーストハンプトンのキッズサッカークラブに入りたいと言っていた。
友達が入っているらしい。


おれはシャワーの中で泣いた。
あの日、家を出てから初めて、彼女たちに、本当に申し訳ないことをしたと思った。



シャワーを出て、ガウンを羽織ってブランデーを飲む。
テレビをつける。
ニューヨークの市長選挙のニュースをやっている。
今度、黒人女性の民主党立候補が出馬することが話題になっている。
しかし、おれはほとんど何も見ても聞いてもいなかった。
ブランデーを飲み終わると、ベッドに横になった。
しかし、おれはまたあの嵐の中に戻ってしまうことを恐れていた。
もし、あの巨木の熊の巣穴が無かったら、おれは夢の中で嵐の海で死んでしまうのではないだろうか？と恐れていた。

そのまま眠ってしまったようで、おれはベッドの上で目が覚めた。
サイドテーブルには昨夜のブランデーグラスが置いてある。
夢は見なかったようだ。
おれは夢を見なかったことにほっとした気持ちでバスルームへ行って歯を磨いて顔を洗う。
ルームサービスでハリーが朝食を持ってきてくれる。
今日はトーストにイチジクのジャム、オムレツ、トマトサラダとコーヒーだ。
久しぶりにものを食べるような気持ちで、一つ一つの味を丁寧に感じ取っていく。
綺麗に食べ終えて、食器をカートに乗せて廊下に出しておく。
今日はランニングへ行く気持ちが起こらない。

もうこのホテルにいることはやめようと思う。
確か今日はベルナルドが休みの日だ。
彼に礼を言ってからホテルを去りたいが、明日までこのホテルにいることはもうできないと思っていた。
それはベルナルドが言っていた今のおれの”心の方向”なのだと思った。
おれは日記を書いていたノートにベルナルドへの礼を書いた。



親愛なるベルナルドへ、

あなたはおれにヒントを与えてくれた。とても大切なヒントだ。
おれはそれをいつでも思い出せるようにこの部屋に備え付けられたペンをひとつ拝借していくことを許してほしい。
ありがとう。

p.s. ハリー、毎日食事を運んでくれて、ありがとう。

Sincerely,

Williams Terry



おれはノートをそのページで開いたままテーブルの上に置き、チップと部屋のキーを横に置いてから支度をした。
手紙を書いたこの部屋のペンは大切なしるしとしてにポケットへしまった。
荷物は少ないのですぐに支度を終えて、車のキーを持って部屋を出た。

ロビーまでエレベーターで降りると、やはりフロントにベルナルドはいなかった。
いや、そもそもベルナルドは本当にいたのだろうか。
チェックアウトを済ませて、ベッツィが笑顔でおれに挨拶をする。
一瞬、ベッツィに「ベルナルドは本当に存在するのか」と聞こうと思ったが思い直し、おれも挨拶を返して、ホテルを出た。
ホテルの駐車場に停めてあるアルファロメオに乗りエンジンをかける。
空は青く、ちぎれた雲が飛んでいく。

行くあてはまだ無い。
次の”心の方向”を見つけるのだ。





完
＊ご愛読、ありがとうございました。